大学が始まると覚悟していた通り、ゆっくり一緒に過す時間は殆ど取れなくなった。
忙しさに拍車をかけたのは、3ヶ月後に迫った結婚式の準備だった。
ほとんどオフクロが張り切って仕切っていたが、俺たちが動かなければどうにもならないこともあった。
その夜は疲労が蓄積しているのか何だか身体が重かった。それでもやらなければならないことは山積していた。
あともうひと頑張りしようとコーヒーを淹れにキッチンに下りると琴子がいた。
「入江くんも休憩?コーヒー飲むよね?」
そう訊きながら、既に俺のマグカップを食器棚から手に取っている琴子。
「ああ。頼む。」
僅かに目を細めて言った。
「...すぐに上がっちゃう?」
琴子が上目遣いに俺を見る。
「そのつもりだったけど?」
琴子の言いたいことはわかっているのに。てゆーか、俺だって同じ気持ちなのに琴子に言わせる。
「...よかったら、一緒に休憩しない?」
「いいよ。コーヒー飲む間だけな。」
言わなくても言いことをわざわざ口に出したのは、意地悪じゃなくて自分に言い聞かせる為だ。
「うん。」
琴子がにっこり笑った。
マグカップを持って私の部屋に行った。二人で小さなソファにピッタリと並んで座る。
入江くんに触れている部分がじんわりと温かい。二人で飲むコーヒーは身体を芯から温めてくれる。
ゆっくりとコーヒーを飲む。柔らかいブランケットに包(くる)まれているような空気に包(つつ)まれる。
このままコーヒーを飲み終わるまで、二人で寄り添ってじっとしていてもいいかなって思う。でも、やっぱりもったいない。
「入江くん、今日ね、エステに行ったんだよ。大学早く終わったから。」
「へーっ...別に変わらないけど?」
入江くんが手を伸ばして私の頬に触れた...ドキッとする。
入江くんは感触を確かめるように指先でゆっくりと撫でる...ドキドキする。
突然、入江くんがパクッと食べるみたいに頬を唇で挟んだ。
「きゃ。」
琴子が片手で頬を押さえ、大きな目を真ん丸にしている。
「美味そうだったから...でも、こっちの方がもっと美味そうかな?」
俺は琴子の手からマグカップを取り上げると、ぷるんとした唇に口付けを落とした。すぐに唇を離した。
「止められなくなるから、俺、部屋戻るわ。頑張れよ。」
「あ...う、うん。頑張ってね。」
琴子の頭をくしゃくしゃと撫で、自分のマグカップを持って部屋に戻った。
琴子と一緒にいたのはほんの短い時間だったのに、あんなに重かった身体が嘘のように軽くなっていた。
自然に次の日も同じ時間にキッチンに向かっていた。キッチンから漏れる明かり...琴子がいた。
それから俺たちは毎日同じ時間にキッチンでコーヒーを淹れ、琴子の部屋で過すようになった。
例え僅かな時間でも、二人で過ごす時間は俺に安息をもたらしてくれた。
後期試験が終わった。琴子は頑張った甲斐あって1科目も落とさなかった。
あと1点足りなかったら落としていた科目が2科目もあったらしく、琴子の言葉通り奇跡的に再試験を免れたようだ。
卒業も決まり少し落ち着いた琴子は、結婚式準備で本格的にオフクロに引っ張りまわされることになった。
明日は早速オフクロに連れられて衣装合わせに行く。勿論俺も一緒に来いと言われたが忙しくて無理だと断った。
嬉しそうにドレスを選ぶ琴子を見たくない訳ではないけれど、沢山のドレスを前に迷いまくる琴子の姿は容易に想像できた。
俺は琴子に合わせた衣装を着ればいい。琴子のドレスは当日の楽しみにとっておくのが賢明だと判断した。
こんな俺でも結婚指輪だけは二人で選ぼうと思っていた。オフクロにガタガタ言われる前にちゃんと用意したかった。
いつものコーヒーブレイクに琴子と相談して、大学の帰りに銀座の宝飾店に寄ることにした。
「よかったぁ。いつものカッコだと完全に浮いてたよぉ。」
店に入ってすぐ、会社帰りとわかる落ち着いたカップルに目を遣りながら、琴子がホッとしたように呟いた。
久し振りに二人で食事をして帰ろうとも伝えていたので、琴子はいつも大学へ行く時とは違うデートっぽい服を着ていた。
確かにオフクロがよく利用する老舗の宝飾店は、大学生が気安く入れる雰囲気の店ではない。
「いらっしゃいませ...よくお似合いですね。」
俺に気付いた店員が声を掛けてきて、琴子の指を見て微笑んだ。
「入江くん、この指輪ここで買ってくれたの?」
「ああ。」
「今日は、どういったものをお探しですか?」
「結婚指輪を。」
「まぁ。それはおめでとうございます。こちらへどうぞ。」
結婚指輪が並んでいる一角に案内された。素材もデザインも沢山の種類があってちょっと驚く。
「入江くん、見てーっ。これ重ねるとハートの模様になるんだね。かわいい。」
「無理。」
「わ、わかってるよ。ただかわいいって言っただけだよ...じゃあ、こんなのは?」
「俺がするには悪くないけど、お前のイメージじゃない。」
いま一つ決め手を欠くといった感じで決めあぐねていると、接客をしてくれていた店員が一旦下がって戻って来た。
「こちら、今朝入ってきたものなのですが。」
「入江くんっ。」
琴子が俺を見る。その顔を見て、俺はニヤリと笑った。
「これにします。」
店員に勧められ一応指に嵌めてみる。お互いの手を並べた。やっぱりこれだな。俺たちは満足して微笑み合った。
「刻印はどうされますか?お互いのイニシャルに日付が定番ですが、最近は好きな言葉を入れる方も多いです。」
「入江くん、好きな言葉だって...Forever Love とかかな。きゃーっ。」
一人で盛り上がって一人で照れている琴子...ったく。しょーがないヤツ。
「もう決めてあります。」
「あ、そうですか。では、こちらにお願いします。」
「入江くん、決めてるって?何て書くの?」
差し出されたオーダー票とボールペンを受け取る。琴子が手元を覗き込む。
「入江くん、これ何て読むの?どういう意味?」
琴子にもちゃんと教えておいた方がいいよな。二人の指輪なんだから...
「N φ K、K φ N...お互いのイニシャルをφで繋いで、あとは結婚式の日付。φ(ファイ)は黄金比って意味だ。
黄金比はもっとも安定し美しい比率って言われてるんだ。黄金比φの黄金長方形から短辺を一辺とする正方形を取り除くと、残る部分はまた黄金長方形となる。これを繰り返すと、黄金長方形は無限個の正方形で埋め尽くされるんだ。」
「...難しくてよくわからない。」
「そうだな。黄金比φの中に永遠があるとでも言えばいいかな。」
「永遠があるの?」
「そうだ。それに黄金比φは1対1.618、正確には1対1.618033989…なんだけど、比っていうのは2つの数字の関係を示す。
何もない0から1が生まれる。元々あった0と生まれた1を足すと新たな1が生まれる。1と新たな1から2が生まれる。
1と2で3、2と3で5、3と5で8、5と8で13、そうやって前の数字と次の数字の比率は次第に黄金比φに近づくんだ。
それと同じように、俺たちも年月を重ねていくごとにφに近付いていこうってことだよ...難しいか?」
入江くんが優しい顔で聞いてくれる。涙で入江くんの顔がぼやける。
「わかるよ...わかる...すごく素敵...ありがとう。」
入江くんが、私と永遠を誓ってくれる...
入江くんが、二人でずっと一緒にいて理想の夫婦になっていこうって...私は世界一幸せだ。
~To be continued~