たとえ世界や自分がさかさまで、こわれていても。 | 奏鳴する向こうに。

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好きなものを書いていく覚書

イッカピ戯画

さかさまの世界となってしまっても、ミッカは構わずその中であそぶ。自分で名付けさえすればすべては生きているし、自分でそう決めさえすれば、素敵な世界。
たとえ自分が壊れていてさかさまでも、大事なのは自分だけのイッカピをいつも連れていること。真実で、こわしやで、「今」とか「ここ」も信じない、でもいつも、わくわくを探してきて全力を使いきる、そういうイッカピを、連れているかどうか。
つづく


伊藤栄麻氏によるシューマン「ダヴィッド同盟舞曲集」を聴く。1903年製のピアノが使われたとのことだが、この響きに壊れそうな美しさを感じ、強さと繊細さをあわせもつとはどういうことかを教えてくれる。
もう30年ほど前になる録音だが、この後倒れたと伝え聞く栄麻氏は今どうしておられることだろうか。



 ヌーリア リアルとユリア シュレーダー率いるバーゼル室内管弦楽団によるテレマン。

 

ユリア シュレーダー


ヘプツィバ メニューインの箱には、たくさんの貴重な写真を使った紙ジャケで入っている。


イリーナ メジューエワによるベートーヴェン全集2020年録音、1922年製NYスタインウェイが使われている。この響きが素晴らしい。硬質なのに柔らかく、軽やかで強い。本当に澄んだ響きというのはこれを言うのかもしれない。枯れ葉が底闇に沈んだ清流の流れを「澄んでいる」と感じるように。14番まで聴いたが、わくわくさせてくれた。
なお解説書には作曲家の平野一郎氏による「毀れた星空の向こう側」と題されたベートーヴェンとメジューエワへのオマージュが掲載されているが、いつも力のこもった名文がひしめくメジューエワ録音の解説書の中でも知る限り屈指の文章であった。こんなに熱いのにいやな圧が一切ないのは何故であろう。めくるめく感じといい、これは何かの価値評価などではない、言葉でできた、心を込めた音楽だからかもしれない。


 バレンボイムによるベートーヴェン全集。これも2020年録音。今日は17番「テンペスト」を聴いたが、力の抜けきった、一切を俯瞰するような独自の境地。かつてケンプやアラウが聴かせてくれた境地をふと思った。

ひとが何を言おうと自分の道を歩き続けてきたこの人の持続力には、もはや好悪を越えたものが私の中にある。

 

2023年はウィーンフィルのノイヤールコンツェルトを聴かなかった。新年に母が倒れそのまま没したからである。

母ひとり子ひとりの母子家庭で育った私としては、長年の友を失った気持ちからいまだに立ち直れていない。

たったひとりで世間と戦い、看護師として稼ぎ、長持ちする家を建て、ひとり息子を大学まで出した。期待を裏切ることしかしなかったその息子の帰宅をいつも心待ちにしてくれ、私としては芸術を語り合える唯一の友であった。

1年後、聴き逃していたノイヤールコンツェルトをDVDで視聴した。

ウェルザー=メストの、いつもそこにあるものを出す、というような指揮を私は愛する。何も、特別なこととして構えるのではない、そのあり方こそが、本当の「特別」に気づかせるから。


恒例の「美しく青きドナウ」前の指揮者コメント、「ニーチェ」と聞こえたが聞き取れず、後日調べてみると「音楽なしの人生は誤りだ」という懐かしいニーチェの言葉の引用だった。胸を突かれる。その通りと思う。

言葉も音楽も、たとえ旧知のものでも、放たれて届いた状況とタイミングによって、何も感じないこともあれば、存在の根底に至るまでおそろしく刺さることがあるが、まさにこれは後者だった。この、聴き慣れた曲も多いコンサートのすべてが。

 

ウィーンフィルも第2ヴァイオリンを向かって右に置いてくれるようになって久しいが、これは敬愛する故アーノンクールに感謝しなければならない。
今回その最後尾で弾いていた方に目を奪われたが、お名前も何も分からない。


今年はティーレマンがノイヤールコンツェルトを振って、盛りだくさんで楽しく、しばらく苦しい現実を忘れさせてくれた。が、この奏者は見当たらなかった。

フジコ ヘミングとフォルシュター指揮ミュンヘン交響楽団によるグリーグを聴く。
フジコ ヘミングの、ちょっと浮世離れしたでも確たる世界を持っているあたりが亡母を思わせる。寂しがりの孤独好きというか。そのピアノの響きは色彩と強さがあって好きである。

本格的にフジコを知ったのは一昨年からで、その画集も母なら素敵素敵と楽しんでくれたはずだが、見せる機会を持てなかった。

 

昨年生誕100年を迎えたビクトリア デ ロス アンヘレスのライヴ録音よりスペイン歌曲の数々を聴く。乾ききった大地の、突き抜けた明るさは、命の闇まで照らし抜く。