どんな時にも、自分だけの、誰にも知られぬよろこびの運命をさがして。 | 奏鳴する向こうに。

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18の頃から集めたクラシックのCDを、それに合わせた絵や本とともに聴いていく、記録。と、イッカピ絵本。

イッカピ戯画と離詩

生え変わりのためにとれたイッカピの角を弓につがえて、蒼いミカヅキのミッカは天を射る。スペードの森は大きく乱れてこわれ、脈打っていたのは、ガラスの破片が突き立っていたハートだったことが分かる。
水と時間と太陽は、融け合って未知の空間をひらく破裂を引き起こす。ミッカは何にも負けない。ミカヅキを負ったものはそうなのだ。最初から何にも勝とうとはしていないから、何にも負けようがない。ただこの世の最初にあったはずのよろこびをさがしているだけ。
つづく

 



カザルスとバウムガルトナーによる第3番ト短調。

 


タニア テツラフ独奏によるハイドン第1番ハ長調。天馬が翔ける素晴らしいチェロ。

 


 ウィーン弦楽四重奏団による1975年のモーツァルトの第15番ニ短調。泣き濡れた、音の線の美しさ。


 


 宮沢明子がグロトリン スタインヴェック製のピアノを弾いた盤よりベートーヴェンのソナタ第3番ハ長調。

ケンプ、アラウ、ギーゼキング、エリー ナイ、クララ シューマン、といった人々が高く評価したと伝わるグロトリン。

線の太さと明敏さを兼ね備えている。

 



 ブーレーズのベートーヴェン録音はついにCD1枚分だけだったが、素晴らしい。克明。

クレンペラーに慣れた耳には奇異に聴こえない。


ただ、第3楽章での提示部反復実行が取り沙汰されている(ベートーヴェンの反復記号書き忘れ説)が、むしろ徹底的にそれを実行するなら、(作曲者が明らかに書き忘れなかった)終楽章での提示部を反復しないことが驚きだった。クレンペラーはそれをやり、バーンスタインもしていたように記憶しているが。


結局提示部をすべてリピートすること自体はブーレーズの方針ではないということだろう。

すべての音を白日のもとにさらすのが方針と思われ、全体として透徹したものを感じさせるが。


しかし個人的には提示部すべての反復にこだわる。そうしないと、反復の時だけ弾かれるいわゆる「1番カッコ」の中の音が弾かれないことになるから。


それはほんのわずかな音数に過ぎないが、この運命の終楽章や「ラズモフスキー」四重奏曲第2の第1楽章では、ハッとさせるものがある。ともかく私はひたすら、書かれたすべての音が聴きたいのである。


ブーレーズへの賛辞一辺倒ではない日本語ライナーは読み応えがある。

それはよくもわるくも、書き手の匂いが強烈だった頃の、懐かしいものである。


併録は渋い選曲となるカンタータ。

ニューヨーク市警の敏腕刑事すっぽんのジャクソンといった感じのジャケット写真も含めて、私には興味深いディスクであった。

 



 デュオ クロムランクのおそらく最後期の録音(1994年)となるシューベルト、幻想曲ヘ短調など。

愛慕と荒廃、すべてを呑み尽くしてしんしんと奏でられる。

愛を歌えば哀しみとなり、哀しみを歌えば愛になってしまう、というシューベルト自身の言葉にここまで自分たちの血肉を与えた演奏も稀であろう。

 


 ノヴァエスとの共演でショパンのピアノ協奏曲ヘ短調。ショパンの2曲のうち、クレンペラーのレパートリーはこのヘ短調の方だった。私も常々このヘ短調の方により惹かれる。

決して泣き濡れない軽やかなノヴァエスのピアノと草原で戯れるような美しさ。

 


 トリオ フォントネによるシューマンが入手困難なのはどういうわけなのか。今日は第2番ヘ長調を聴いたが本当に美しく強く、奏でられていた。1993録音。数年前の第1よりさらに自在な感があった。

 



ビゼーのピアノ曲全集より。

CD初期に1度出たきりの国内盤には、ライナーに信頼する濱田滋郎氏の言葉や、井上さつき氏の簡にして要を得た楽曲解説があってありがたい。録音も、昨今のリマスターをうたうものと何の遜色もないみずみずしい音である。

セトラックという未知のピアニストだが素晴らしい。

 


 ワルター指揮によるヴェルディのレクイエム。