鐵百合奈が懸命に伝える世界に耳を澄ます。聴く前と後で変わっている世界、魂の態度についてなど。 | 奏鳴する向こうに。

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18の頃から集めたクラシックのCDを、それに合わせた絵や本とともに聴いていく、記録。と、イッカピ絵本。

今日のイッカピ

夏、風の窓、光の人形は徐々に命をもちはじめ、こんこんと眠るイッカピに、静かに出発と戯れをうながす。
つづく



コレギウム アウレウムによるビーバー作品集。声部が徐々に増えるようにプログラムして聴くと、気持ちが大きくひろがっていく。このチームの先駆的かつ誠実な仕事は素晴らしいと思う。


今の手待ちは ArsNovaレーベルのバルヒェット集成箱だが、ヴェイロン=ラクロワとのバッハとは次のディスクで出逢った。

 今日は第3番を聴いたが、その心のこもった響きにあらためて打たれた。



シュヴァルツコップの1945〜1952の、主にモーツァルト歌劇アリア集。


1956年カーネギーホールリサイタルよりモーツァルト歌曲。



 鐵百合奈(てつゆりな)という忘れがたいお名前のピアニストの素晴らしいベートーヴェンを、番号順にたどっている。

今日は第9,10番。

鐵氏自身のライナーが本当に私にはツボで理想。演奏者ならではの視点で、楽譜の指示や書法の特徴に触れながら、率直にその曲を自分がどう感じて弾いているのかを、絶妙な比喩も駆使して書いている。


例えば私は長年この2曲が苦手だったのだが、それはある著名な評論家の「悲愴の後の緩やかな尾根下り」という言葉に、これらのソナタを積極的に評価できないという意思を感じてそれに影響されてきた面もある。

ところが鐵氏は、まずこのホ長調ソナタにベートーヴェン流の「子どもの情景」をみる。

走り出し、まどろみ、夢み、そしてまた走り出す子どもの姿。

その視点を促された時、私には忽然とこのソナタの素晴らしさが見えた気がした。


文学的な読み、というものに否定的な人もいるかもしれない。

しかし自分では弾かない者がこの奏者の表現を評して言っているのではない。あくまで奏者である筆者が、自分の脳裏に浮かんだ発想を言っているのである。

ただ楽譜をなぞるだけがプロのピアニストの仕事ではあるまい。自分の技術はもちろん、文学的になろうがなるまいが、自分自身の感性と知識のすべても使ってベートーヴェンを読み取り、実際の「音」とともにそれを聴き手に届けようとしている。自分が読み解いたベートーヴェン像のひとつの提示。

私はここにプロとしての誠実かつ徹底的な姿勢をみる。


10番についても、スラーが執拗に書き込まれレガートという言葉までわざわざある楽譜のことに鐵氏は触れているが、これなど聴くだけの者には知り得ないことだった。これによりベートーヴェンがどんなにこの楽章をなめらかに弾いてほしいと願ったかが分かる。

そして長年苦手だったこの第2楽章の変奏曲、鐵氏はここに、人形が徐々に命をもって子どもになっていく様子をみる。

それはちょっとしたイメージの、ちょっとした提案というか彼女自身のほんのつぶやきに過ぎない。が、それでこちらの耳から鱗が落ちるには充分なのである。


こういったことを書かず、音だけ弾けばいいのにと思われる人がいるとしたら、私にはその人は傲慢に思える。特にその人が自分では弾かない人なら。

聴くだけの人で、自分の耳だけで、ベートーヴェンの凄さをすべて聴取できるという人がいるなら、私にはその人を信じることはできない。

経験を積んで真摯に学んできた弾き手が、絶妙な比喩を使って述べることは、たとえそれがいかに唐突で舌足らずに思えても、私にはぐいぐい音とともに入ってくるし、それはこちらの耳を啓かせてくれることが多い。

私はこのような意味で「弾き、語る」人を信じるし、そしてその言葉も音も吸収してから、また自分なりにベートーヴェンに向き合ってみる。

 


クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団1963年のシューベルト「未完成」交響曲。

 ただクレンペラーの「未完成」では1968年ウィーンでのライヴが忘れられない。


ウェーバーの三重奏曲ト短調。



メンデルスゾーンのヴァイオリンとピアノのための二重協奏曲ニ短調。



ファイン アーツ四重奏団によるシューマンの2番。



デュオ クロムランクによるブラームス「新・愛の歌」。歌唱がない分、この曲のピアノの美しさが新鮮に響く。



パウリク指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団による素晴らしいウィンナワルツ。儚さがこんなにも円満で力強いとは。



シュヴァルツコップ1977年2月アムステルダムにおける引退公演。

低く落ち着いた声が沁み透る。ピアノのジェフリー パーソンズが深い音色で支える。

「ひとつの歌曲を聴く前と後では、あなたの人生は変わっていなければならない」

「歌曲」というものにかけられた彼女の思いの深さを表す言葉だが、私はこの言葉に、「歌曲」に耳を澄ます時の精神的な態度を、自分なりにだが学んだ。

管弦楽ほど音として大きな世界ではない、ピアノ独奏と比べても何となく軽く聞いてしまいそうな、ピアノ伴奏歌曲。しかし歌詞を感じきった作曲者たちの思いに懸命に耳を凝らすと、そこには、ぼやぼやしてたらちょっと耐えきれないほどの真実の重さや軽さがあることに、気付かされるのだ。


アルベリック マニャールの美しいピアノ曲集作品1と「わが希望、わが剣は神を護るために」

いつ何を信仰しているか、より、常に、世界に対する魂の態度が問われると思う。

マニャールは、私にとって信じられる人のひとり。



デンマークのdanacordレーベルがお国の宝ニールセンの歴史的録音(主に1950年代)を、時に数種に及ぶ同曲異演構わず詰め込んでくれた箱。


この著作を読むとニールセンの記憶が自分事になる。音楽家の自伝としては、知る限りベルリオーズに並ぶ面白さ。