吉村昭 『総員起シ』 | 現在と未来の狭間

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吉村昭さんの戦史小説『総員起シ』・文春文庫を読み終えた。

日本本土内での戦闘をベースとした5編の短編小説である。歴史の教科書の中では触れられない、一般の人たちの心の奥底に秘めた、苦しみの作品でもある。

『海の棺』

北海道のある浜辺に、次々と兵士たちの死体が揚がってくる。将校の姿はなく、下級兵ばかりが。彼らは何故か、腕が無かったり、手首が無くなっていた。間もなく沖縄戦に入ろうとしていた時に動員された数千の兵士たちが輸送船に乗船中、アメリカ軍の潜水艦に雷撃を受けたのである。機密保持のため1隻残された上陸用舟艇では将校たちだけが助かり…。

『手首の記憶』

終戦後の樺太でのソ連軍襲撃を題材にした作品。病院に留まった看護師たちが集団自決を計り…。

『烏の浜』

避難民を載せた民間船が潜水艦の攻撃を受ける。日米は既に停戦状態にあり、行われない雷撃はなぜあったのか?

『剃刀』

沖縄戦の終末を描く。基地司令官の割腹自決に違和感を覚える筆者が取材の中たどり着いたのは。

『総員起シ』

戦後10年あまりが過ぎようとしたとき、事故で沈没した潜水艦伊33が引き上げられる。中からは腐敗していない、眠ったままのような姿で遺体が見つかる。その中に、男根を直立させたまま息絶えた兵士がいた。

急速潜航訓練時、伊33号では何が起こったのか。海面下64メートルの中、潜水艦に閉じ込められた乗組員たちはどの様に死を迎えたのか。壮烈な引き上げ作業の中、真実が分かってくる。



どの作品を読んでも重い作品である。鮮明に描くのは人間の死体だ。この描写は恐怖とも呼べる。

この戦争は避けられなかった、また当時の民衆意識では戦争を望む声もあったというが、吉村さんが書かれる作品の中では悲壮なものでしかない。だが本来戦争とは華やかなものではない。末端で戦うもの、生活するものからすれば、そこに正しいと呼べるものがあったのだろうかと思う。


吉村さんはデビュー作から強烈な死体の話を描いていた。死を描くのではなく、無機質になった死体を描く。また死体から出てくる死臭を描く。一旦、体に染み付くと風呂に入っても取り去る事のできない死体の匂いを描く。ここに作者のこだわりがある。彼の書く戦史小説もそのこだわりが強く出ている。

戦争が無機質なものしか生み出さないことを伝えたいのではないかと思う。

ここ最近、戦時を賛美したり、戦争での死を尊いものとして見る風潮が強いが、そうした風潮を支持する人々からすれば『総員起シ』は煙たがれる作品かもしれない。

「慰安婦がいるのは当たり前」と思っている政治家たちに、この作品の怖い部分だけを読ませてみたい。