『海と毒薬』読了 | 現在と未来の狭間

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昨日、今日とで遠藤周作さんの『海と毒薬』を読み終えた。この本は再読で2回読んだ事になる。

前のブログにも少し書いているが、これは戦時中の旧九州帝国大学付属病院で実際に行われた米兵の生体解剖事件をベースにした小説だ。こう書けば想像がつくと思うが、グロテスクな作品だと感じることだろう。恐らく、若い人はあまり読みたいとは思わないかもしれない。

私自身、この作品を知ったのは高校生位の頃だったと思う。映画化もされて話題になった。全編モノクロで撮影されたこの劇場作品はそのグロテスクさが強調されたように思い、なかなか読み始めることができなかった。

だから実際に通しで読んだのは30を超えてからである。なぜ読もうと思ったのかと言えば、このような残虐性のある事件があったことに、日本が戦争に突入して行った理由があるのではないかと考えたからだ。あまり短絡的に考えることは良くないと思うが、日本人の集団性、集団心理的な部分が理由にあったのではないかと思う。

小説作品の中に出てくる登場人物の中で、良心の呵責を感じるのは若い医学生一人だけである。もう一人の医学生は、最大の悪に手を染めることで自分の中に呵責を感じることができるのではないかと考えるが、そこには世間から罰せられることに対する苦しみはあっても、自分自身から苦しむことはないと詳述する。つまり世間体は感じるということなのか。

欧米では善悪に対する判断はキリスト教の教えの中で明確に示されている。つまり良心の呵責は強力な神の力で発動すると考えてもいい。それに対し、日本人の善悪の判断は神ではなく、世間体というもので縛られている。個人の価値基準ではなく、周囲がどのように判断するかがまず頭に浮かんでくるということか。

本作の主人公は、生体実験の立会いに声をかけられた時、一瞬の迷いが生じるものの、明確に断る判断基準がなくそれに承諾してしまう。そして何度も断るチャンスがあるもののそれをせず、実際に解剖が行われる場の中でうずくまってしまうのだ。

個人の価値基準がないというところが致命的なのだと思う。オウム事件しかり浅間山荘事件しかりではないか。もっと身近なところで言えば、学校でのいじめや会社で行われるパワーハラスメントもそうだし、ブラック企業なども同じことではないかと思う。個人がこうしたいとか、これはしたくないという価値基準が黙殺されるところに、日本で起きる大小ある事件の背景のような気がする。

戦争についても、これは国民が後押しした部分がある。これはかなり嫌な言い方にもなるけれど、善悪の判断基準や、価値観の所在が日本人という集団の中にあるからではないかと思う。

この小説を読んだら、きっといい気持ちはしないと思うが、もしかするとある種のショック療法になるのかなと思う。私自身にも集団的な価値観が根付いており、何かの犯罪や、罪に手を染めないとは言えないのである。