歴史上人物のお墓参り25武田勝頼 甲州市・景徳院 | nao7248のブログ

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大河ドラマ「真田丸」で俳優・平岳大氏が武田勝頼の寂し過ぎる最期を好演したからか、最近勝頼を再評価しようという機運が高まっているように感じている。
私はと言えば世間一般のイメージ通り、勝頼は偉大なる父・信玄の能力を受け継ぐことが出来ず武田家を滅亡に追い込んだ凡将であると思い込んでいる者の一人である。しかし20数年来愛して止まないゲーム「信長の野望」の数値が高く、私を歴史好きに目覚めさせてくれたゲームプロデューサー・シブサワコウ氏は勝頼を高く評価していることが疑問で、それが勝頼に興味を持ち続けることになった。
元亀元年(1573)に三方ヶ原で徳川家康を撃破し、家康本国の三河に侵入した矢先に父・信玄が死亡した。信玄の死は織田・徳川にとって死地を脱したに等しく、同時に攻勢に出る大チャンスへと変換した。
勝頼は家督を相続した直後から、武田家のピンチに立たされたことになる。これからの采配一つ一つが家門の命運を分けるほどに重いものになるが、名門育ちの勝頼にそれほどの危機感を持ち得たかどうかは疑問が残る。
とは言え勝頼は家督相続後間髪いれず、天正2年(1574)に織田領である東濃・明知城と徳川領である遠江・高天神城を数カ月の間に陥落させるという速攻を見せた。
一方の徳川家康は幼い頃から今川家の下風に置かれ、独立した後は武田家の脅威にさらされ続けた為に常在戦場の家風が染み込んでおり、奥三河の豪族・奥平氏を味方に引き入れて対武田戦略を確実に進めて行く。
勝頼は自らの采配で連勝したことに気を良くしたのか、徳川氏に寝返った奥平氏への報復措置として人質である奥平信昌夫人と弟・仙千代を殺害した後、奥平信昌の居城長篠城への攻撃を開始する。歴史上有名な長篠の戦い(1575)である。
歴史を語る上で「たら・れば」は付き物なので勝手に推論を述べることにするが、勝頼の天下取りを主題にするとこの意固地なまでの押し戦が武田家の軍事力はもちろんのこと、雰囲気として家運の衰退を全体に感じさせてしまったことが最大の失敗ではないだろうか。
その後勝頼は織田軍の侵攻に為すすべもなく敗戦を重ね、重臣・小山田信茂(1539?−1582)の居城 岩殿山城を目指して、大善寺に至る。
大善寺山門
甲州街道を眼下に臨む姿は迫力満点。

国宝薬師堂 弘安9年(1286)建立、歴史に名高い元寇の弘安の役の数年後に建てられたという貴重なお堂。

しかし勝頼はここで衝撃の知らせを受ける。頼りにしていた小山田信茂が織田方に投降したという。これにより織田軍・滝川一益の追討から逃れることは出来ないと判断し武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指す。
しかしその途中の田野で追手に捕まり、嫡男信勝(1567-1582)と正室・北条夫人とともに自害した。
勝頼自害の地は後に甲斐を平定した徳川家康によって景徳院という寺院が建立された。
故武田信玄を尊敬して止まない家康の武田家への追慕であろう。
麓にある公営の駐車場から見上げる。

その先の石段を登ると山門が威容を誇るように現れる。


門をくぐると本堂が目の前に美しい姿を見せてくれる。

本堂にお参りして、下山する途中にある甲将殿
勝頼他、この地に眠る家臣達の位牌堂である。

甲将殿の前にある勝頼公生害石
この石の上で自刃したという。

甲将殿の裏に勝頼を囲むように信勝と夫人の3つの墓石が並ぶ。

損傷部が歴史の長さを感じさせる。
かなり大きい立派な墓石に圧倒される。

勝頼が最期の地として目指した天目山棲雲寺
景徳院から渓谷沿いの坂道を4.6km進んだ先、標高1050mの地に棲雲寺はある。

ひっそりとした境内の左手奥に甲斐武田氏13代当主の武田信満(?−1417)の墓がある。
信満もまた上杉禅秀の乱に加担した為幕府側の討伐に抗しきれず自害した。

勝頼悲劇の最期に相応しいと言うべきか、山深い静寂の空間であった。
勝頼の評価については、BSプレミアムにて11月8日夜8時に放送された「武田勝頼・山城をめぐる最期の決断」という番組で著名な歴史家の方々が知られざる勝頼の真の実力を存分に語っておられ大いに賛同したので、いささか無責任ではあるがこれで終わりにしたいと思う。
最後に一つ言えるのは、織田・徳川という最強コンビに目の敵にされた不運と言うか、相手が悪過ぎたと言うか、これもカリスマ信玄の後を継いだ男の宿命と言わざる得ない。