前置きで話が大きくなりかけたが、今回は東大寺に関わった一人の僧侶のお墓を参りたいと思う。
いくつかある奈良のシンボルの中でも1番と言っていい場所が東大寺であるが、東大寺と一言で言っても広大な敷地に多くの建造物を有する大伽藍であり、その中心を成すのが大仏殿である。これがなかったら…と想像すると、せっかくの世界遺産群が少し残念な感じになることは否めない。
この建物は二度の戦火に焼かれ、現在の大仏殿は3代目で宝永2年(1709)に中門、廻廊、東西楽門と共に完成した。
永禄10年(1567)に松永久秀・三好義継と三好三人衆・筒井順慶が東大寺付近で市街戦を繰り広げた結果、松永・三好軍の失火によって大仏殿が焼失して以来150年間、本尊の盧遮那仏は雨曝しの状態であった。
慶安元年(1648)丹後宮津に生まれ、万治3年(1660)東大寺・英慶に師事し三論を学ぶ。貞享元年(1684)幕府の許可を得て「一紙半銭」を標語に全国的に勧進を行い、7年後に1万1千両(現在の価値で10億円相当)を集めることに成功し元禄5年(1692)に盧遮那仏の修理が完了して開眼法要を行った。その翌年、再建に協力した将軍綱吉に拝謁したが、大仏殿の落慶を見ずに宝永2年(1705)江戸で死去。
遺骸は奈良に運ばれ東大寺復興の先人・重源(1121-1206)が建てた五劫院に埋葬された。(Wikipediaから一部抜粋)
公慶没後4年目の宝永6年(1709)に大仏殿は落慶した。
北側から大仏殿を見る。鹿が寛ぐ芝生スペースは、かつての講堂跡である。
本堂の右手に、治承4年(1180)平重衡の南都焼討で焼失した大仏殿と盧遮那仏を再建し五劫院を建てた重源な慰霊碑がある。
通常非公開となっている
奈良には国宝、世界遺産が数多くあり、先人が大切に継承してきた想いの結晶が形として存続していることに感謝の念を抱かざるを得ない。
裏に回ると見える御影堂
公慶死の翌年に制作された木像が、大仏殿を常に見上げられるように東に向いて安置されているという。現在の価値で10億を集める為に苦難の連続であったことは想像に難くないが、残された者から手厚く葬られたことを思うと幸せな人生を生きた人であったと想像出来る。特別公開があれば生で見たいものである。奈良には国宝、世界遺産が数多くあり、先人が大切に継承してきた想いの結晶が形として存続していることに感謝の念を抱かざるを得ない。
大仏殿のように焼失の憂き目にあっても、後世まで残そうとした人がいたこと、そのおかげで現代に生きる私たちが往時を偲ぶことが出来ること、この奇跡に感動した一日となった。