歴史上人物のお墓参り㉓長宗我部信親・高知市雪蹊寺 | nao7248のブログ

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元親が稀有な時勢眼を持っていたことを示すのが永禄6年(1563)に美濃・斎藤家家臣の石谷光政の娘を嫁にしていることであろう。桶狭間の合戦からわずか3年後に土佐から400km以上離れた東海地方における部門の名家と姻戚関係を結んだことは並大抵のことではない。後にこの縁があった為に織田信長と誼を通じることになるわけで、その先見の明には驚嘆させられる。

この時元親は本山氏と戦の最中であり、従来の発想で考えれば本山氏の背後勢力と姻戚になり本山氏を包囲する作戦を取るのが常套手段である。実際に本山茂辰(1525-1564)・茂親(1545-1587)父子の頑強な抵抗にあい降伏させたのは元亀2年(1571)、実に婚礼後8年を費やした。

このことは元親の思考を考える上で重要な要素である。前述した土佐や四国の周辺勢力との婚姻によって勢力を拡大したとしても、所詮は一時的な勢力拡大に留まらざるを得ない。先の本山氏攻略に例えれば本山氏を降伏させた後、姻戚関係を結んだ相手に対して宣戦布告しにくくなってしまうからだ。先代国親(1504-1560)が近隣諸国と政略結婚を結び、外交戦略によって小規模勢力であった長宗我部家を維持していたが、元親はそれが土佐を統一する過程で足かせになることを早い段階で気づいたのであろう。備前の宇喜多直家(1529-1582)は政略結婚による外交戦略を最大限に活用して相手を信用させた後にだまし討ちする方法で勢力を拡大したが、元親はそこまで非情になれない性格であったとも言えるしだまし討ちによって得た領土や家臣団を維持するのが難しく、長続きしないと考えたかもしれない。とにかく元親は早い段階で長期的かつ全国的な視野を持ち、すでに中央への進出を構想として持っていたことが窺える。

元親が武門の血統として斎藤家の娘を望み、その妻との間に生まれたのが嫡子・信親(1565-1587)である。元親は東海地方から勢力を拡大して畿内を征圧しつつある織田信長の動向を早くから注目しており、天正3年(1575)嫡子の元服に際して信長を烏帽子親にして「信」の字を与えられ、信親を名乗ることになった。

両者が天下を望むのであればいずれぶつかり合う時が来るが、元親は自分の二歩三歩前を進む5歳年長の信長に畏敬の念を抱くと共に地域的な優位性に対する羨み・僻みが入り混じった複雑な心境で見ていたのではないだろうか。

信親は元親の四国制覇事業に付き添い、その戦略・戦術を間近に見て学んだことだろう。幼少期から聡明で情の深い、元親自慢の息子であったと言われている。その後織田信長の四国遠征直前に本能寺の変が起きて、元親は目前に迫ったピンチを脱したかに見えたが、信長の遺産を継承した秀吉が明智光秀、柴田勝家を撃破、次いで天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで徳川家康(1542-1616)を屈服させた。怒涛の勢いで天下統一へ突き進む秀吉は翌天正13年(1585)に早くも四国征伐を開始する。本能寺の変からわずか3年のことである。この3年間、元親は悲願であった四国統一を果たす。頑強に抵抗する四国の敵対勢力に対してどれだけ多くの犠牲を払っても終わらない戦いの中で時に何の為に戦うのか、という心理的葛藤もあったかもしれないが、家臣団に少しでも多くの所領を与え暮らしを豊かにしたいという思いで乗り越えたのではないだろうか。

その思いが結実し喜びに浸る間も無く、秀吉は弟の秀長を総大将として黒田官兵衛に先鋒を命じて淡路島から蜂須賀勢と侵攻を開始、一方瀬戸内方面からは宇喜多秀家、小早川隆景の軍勢を終結させた。元親は必死の抵抗を試みるも豪華メンバーで構成された秀吉軍の兵力の差は圧倒的で、全滅覚悟で抵抗し続ける元親を家老の谷忠澄(1534-1600)が必死に、まさに決死の覚悟で説得して幸福を受け入れさせた。元親の半生を捧げて自力で得た領土は割譲され土佐一国を安堵された。20年間戦い続けた結果、元の状態に戻ることなったわけだが、この現実を受け入れなければならない心情は後世にいる我々には想像を絶するものであろう。

元親は秀吉に臣従することを受け入れ家臣として九州征伐に駆り出されるのだが、そこでさらに大きな悲劇が待っていた。秀吉の派遣した無能な司令官・千石権兵衛の無謀な猪突猛進作戦によって、また島津勢の中でも精鋭の新納軍の猛攻で最愛の嫡子・信親が敵中に孤立して壮絶な討死を遂げた。22年の短すぎる生涯であった為に人物の実像に迫ることは難しいが、作戦が無謀であることを知りつつ勇猛果敢に出陣したことを思うと彼の武士としての美意識・潔さを垣間見ることが出来る。

雪蹊寺の門前から境内へ。入口右手に案内板があって、史跡としての整備が行き届いている。

 

右手の通路を奥に行った先に信親の墓がある。雪蹊寺中興の祖・月峰和尚の墓と戸次川合戦の戦没者供養塔に囲まれて安らかに眠る。

立派な墓石にきれいな花が供えてあった。

信親を失った元親の喪失感はいかほどであったか。その後の強引ともいえる4男盛親への家督相続やそれに反対する親族、家臣を粛正するといったこれまでの元親になかったダメージの残る対応をしてしまったことから、冷静な判断力を欠いてしまうほど精神的に不安定になったいたことが想像出来る。自分が推す盛親の為に出来ることをやっておこうという元親なりの愛情であったとは言え、晩年は統率者として公的判断を要する場面で私的な感情で判断することが増えたように思える。最愛の嫡子を非業の死で失った人物に徳川家康がいる。無理やりながら元親と状況が似ていると考えてあえて比較すると、家康はこの状況でも家を守る為に公的存在であり続けた。その強靭な精神力、冷静な判断、論理的思考においては遠く及ばずと言わざるを得ない。

元親の死の直後に起こった関ヶ原の合戦で敗者となり改易の憂き目を見るが、元親は最後まで豊臣、徳川どちらとも特別な外交関係を持たなかった。それは晩年の元親は外交感覚が鈍ったとか、人生を投げ出したとか考えること出来るが、私は政権が三好から信長、秀吉に移り、今度は秀吉の死によってまたどう転がるかわからない状況で、これまでの経験から情勢を必死に見極めようとして何もしないという答えに至ったのではないか、と考えている。経験が豊富過ぎたことが仇となったと言えなくもないが、それも選択肢の一つであり、元親らしい判断と思える。