GWに念願だった長宗我部元親のお墓参りに行った。愛知県刈谷市から高知市桂浜まで約480km。夜11:30に出発、途中のSAで1時間仮眠を入れて、5月4日の朝6:30に浦戸城址に到着。その日中に和歌山県海南市の友人宅に着きたいので徳島-和歌山フェリーの出発時間から逆算して12:30には高知を出なければならず、滞在6時間の強行スケジュールだ。この限られた時間で目的を果たす為に、行きたい場所に優先順位を付けて無駄のない移動を綿密に考えた。あとはこの計画を実行するのみ。
そもそも和歌山の友人に会う前になぜこのような強行軍を思い立ったか。それは、長宗我部元親が私の好きな武将(大名)No.1だからである。第一の理由は天下統一の意志を持っていたこと。
群雄割拠の戦国時代というがこの当時天下統一の意志を持っていた武将(大名)がはたして何人いただろうか。その意思表示が最も明快であったのは織田信長であろう。永禄10年(1567)に斎藤龍興(1548-1573)から美濃を奪取した時に、その地を岐阜と命名し天下布武の朱印を使い始めると、その後は怒涛の勢いで上洛を果たすのである。次に上洛の途中、三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝しておきながらその後体調を崩し、三河で死去した武田信玄(1521-1573)である。この行動は明らかに上洛して天下に号令しようするものであるが、室町幕府将軍・足利義昭(1537-1597)の要請と信長の独壇場にさせない為の受け身の行動であったことは否めない。軍事力を持たない為に他の実力者を恃むしかなかったが、天下支配の目線で行動した人物として先に登場した足利義昭もその一人に挙げていい。室町御所で将軍足利義輝(1536-1565)を襲撃し、一時的ではあるが畿内を征圧した三好長慶(1522-1564)と松永久秀(1508-1577)も野心と行動力は特筆すべき人物である。信玄のライバル、上杉謙信(1530-1578)も室町幕府再興という名目を掲げ上洛する意志を持った人物であったが、実際の行動を見る限り畿内より上杉氏の官職である関東管領の職務を全うすることに情熱を持ち過ぎた為関東遠征に人生の大半を割くことになる。
関東の雄、北条氏は家祖・早雲(1456?-1519)が小田原を拠点に領地を拡大していき、4代氏政(1538-1590)までに関八州260万石を支配していた。しかし氏政、氏直(1562-1591)父子はこの豊かな生産量と動員力を持ちつつも関東平野以上の領土を望まなかった。
九州の大友、中国の毛利、東北の伊達と野心家は現れたが畿内までの道のりは遠く局地的な領土拡張に終始せざるを得なかった。また異色の存在として明智光秀、羽柴秀吉、黒田官兵衛も挙げる必要があるであろう。個人の知識、技術的・戦術的能力を売り込み、早い段階で大名の価値を値踏みしてその大名の傘下で天下を治めようと考えた人物と言えるのではないだろうか。
そして四国の覇者、長宗我部元親(1539-1599)である。
現代に生きる私たちはグ-グルマップで簡単に目的地までの距離と時間を知ることが出来る為、四国土佐の位置を見ると畿内とは九州より断然近く良い位置にいるように見えるが、古代・中世の人たちには意識的な相当な遠国であったようである。そこに自分の足で立ち、目で見て、土佐から天下を狙おうと考えたのはどういう感覚なのか、元親の人物を感じたいと思ったのだ。
徳島自動車道をひたすら進み川之江東JCTで高知自動車道に乗り換え南国インターまで実に長く険しい道のりだった。元親が本山氏を降伏させるのにかなりの時間を費やしたが、この峻嶮で奥深い山中に閉じこもられたら攻めあぐめるのも当然であろう。さらにその後、阿波徳島に侵攻し征圧するのがいかに難事業であったか、身を持って感じた。
南国インターを降りるとすぐに元親誕生の地、岡豊城跡が出迎えてくれる。
標高97mの丘陵地を利用して山全体を要塞化している。この上に高知県立歴史民俗資料館が建ち元親の銅像もある。
高知平野の豊かな田園風景。
天正3年(1575)に土佐を統一した後、四国制覇への原動力となったのは土佐高知の豊かな生産量だったのかもしれない。
写真は香南市野市周辺の風景。
生活基盤である食料を支える農地が豊かであることはわかったが、外征するには際限なく供給出来る兵力が必要である。
この問題を元親は一領具足という土佐独自の制度で解決した。武士は鎌倉時代から一族郎党で家臣団を形成してきたが、元親は不足する武士団に農家の次男以下を足軽として採用した。長男は農家を継がなければならないが、土地を分け与えることが出来ない農家の次男以下は平時は傍らに具足を置いて農業を手伝い、陣ぶれがあればその場からいざ出陣出来る体制をとっておくことからこの名が付いた。身分を問わずチャンスがあれば誰でも功名することが出来るこの制度は、足軽のモチベーションを大いに高めることにもなり、精強な土佐武士団が形成されたのである。この制度は土佐の民衆階層に平等意識を植え付け、280年後に土佐郷士となって明治維新に貢献していくことになるが、さすがの元親もそこまでは予期しなかったであろう。これが第二の魅力、政策の独自性である。またある時、土佐兵の酒乱が問題になり一時期禁酒令を発布したが、元親自身が耐えられずにあえなく取り下げになったというエピソードもあり、家臣や領民との距離が近くダメなことは素直に認める元親の人間性が垣間見える。
元親の墓は浦戸城と菩提寺である雪蹊寺の中間にあった天甫寺跡地にひっそりと佇む。
周囲を民家に囲まれた林の前に墓の入口がある。
入口の前に立つと石段が現れる。テンションが上がる。(笑)
階段を登りきると左手に墓石があり、南を向いて建っている。
ウィキペディアに「手入れが行き届かずに崩壊の危機に直面している」と書かれていたので心配したが、石柵に刻まれている通り末裔の方がきれいに整備しておられることがわかった。時空を超えて元親公に少し近づくことが出来たような、静寂の空間であった。
四国制覇目前に信長、秀吉軍の四国攻めが始まり、元親の栄光に影が差し始める。そして関ヶ原の難局を乗り越えることが出来ずに大名としての長宗我部氏は滅亡するが、そこまでの生きざまに元親の魅力が詰まっている。書き尽くすことは難しいが、次回最愛の息子・信親を対象にしてもう少し迫ってみたいと思う。






