明治維新から150年を記念して、大河ドラマ「西郷どん」が放送されている。ドラマで、後に西郷どんとも深くかかわる土佐の坂本竜馬を俳優の小栗旬が演じると発表され、大河ドラマには興味がない妻が見たいと言い出した。竜馬伝の福山雅治よりワイルドな雰囲気があって、また違った竜馬像を出るのではないかと楽しみではある。
幕末~明治維新は13世紀の元寇以来、外国から侵略される危機感が国民の端々にまで行き渡り日本が大混乱に陥った時代である。
この混乱は嘉永6年(1853)にペリー率いるアメリカ艦隊が横須賀市浦賀に来航したことに始まる。前兆は外国船が日本の港に寄港して物資の補給や交易を要求するという形で18世紀後半から既にあったが、北海道や日本海側の港に集中していた為、幕府はその場しのぎの対応で事なきを得ていた。
しかしペリーが率いた艦隊は4隻の大砲の数が合計73門を備えており、明らかに威嚇による恫喝外交の目的をもって江戸湾の手前、三浦半島に停泊した。このことによって徳川幕府が260年維持してきた政治、統治機構、民衆の生活が脅かされ、人々はどの方向に進むべきかの選択を否応無しに突き付けられることになった。現状維持を望む者、現状を維持しつつ改革によって時代に対応しようとする者、革命による新しい統治体制に革新しようとする者など、島国日本はどうなるのか、どうすればいいのか、議論は尽きることなく、果てしない議論の末に武力行使、殺戮の世情へと進展した。
明治維新はフランス革命のような民衆が主導した明確な民主主義革命ではなく、あくまで西郷どんに代表される薩長に率いられた官軍による武士階級の人々が主導した革命である。その為、革命後の国家建造構想を明確に持ちえた者は坂本竜馬を筆頭に極少数であったと思われる。とにかく、まずは徳川幕府を倒そう、という思考の者がほとんどであったであろう。なぜなら、幕府を否定することは封建社会とそれを支える武士の否定になるからである。坂本竜馬は土佐の郷士(下士)と呼ばれる低い身分の武士で、上士と呼ばれる上級武士から虫けらのように扱われてきた為に身分制度を排することに抵抗はなく、無いどころかこれを壊さなければ新国家は成立しないという思考を自然に身に付けることが出来た。しかし260年農民の年貢で飯を食ってきた武士が起こす政権が、武士を否定しなければ成立しないという矛盾をどのように受け入れ実現していくか、この難しさは現代に生きる我々には想像を絶することであったろうと思われる。
さて前置きが長くなったが、このタイミングで敬愛する司馬遼太郎小説の「峠」を読んで主人公である越後長岡藩家老・河井継之助が選択した生きる道を再考察したくなった。司馬遼太郎小説に甲乙をつける愚を承知で言わせていただくと、個人的見解において5本の指に入る秀逸の作品であり今回で4回目の読破となる。
「峠」の話をしておいて、この本の表紙を載せるという暴挙をお許しあれ。
要するに越後長岡藩・牧野家について知りたくなり、このマニアック本を手に入れた。
河井継之助が進もうとした道、一藩独立という稀有な発想がなぜ生まれたかについては小説「峠」が詳しく語っている。これを読んで私は河井が坂本竜馬のように武士や自身が所属する藩という組織を捨てて、日本という国家構想を持つまでに思考を飛躍することが出来なかった理由を垣間見ることが出来た。そしてその根底にあるルーツが、地元愛知県の豊川市にあることを知った。
長岡藩は牧野忠成(1581-1655)が大阪の陣における活躍で元和4年(1618)に6万石に加増されて立藩した。牧野氏は徳川家における譜代大名であるが、その祖父・牧野成定(1525-1566)は桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後に家康が独立した際には従わず、引き続き今川家に属しその最前線に立ち徳川と対峙し続けた。成定は三河牛久保周辺の戦闘で徳川軍を度々撃退するほどに孤軍奮闘したが、今川家との連携に欠かせない要衝にある吉田城(現在の豊橋市)を守る今川家家臣・小原鎮実(おはらしずざね)が永禄8年(1565)に遠州宇津山城に撤退し落城、これにより成定は遂に徳川軍に降伏し、翌永禄9年(1566)5月に酒井忠次(1527-1596)の取り次ぎによって岡崎城で家康に謁見した。そこで家康から牛久保の所領は安堵され、以後酒井忠次隊に所属することになるがその年の10月に42歳の若さで病死した。
後を継いだ嫡男康成(1555-1610)は父の遺領を受け継ぎ、引き続き酒井忠次軍で戦功を重ね忠次の娘・鳳樹院を娶る。徳川家筆頭家老の酒井忠次と姻戚関係を結ぶほど信頼が厚かったと言える。元々徳川家と敵対していたにも拘らずこれほどの恩恵・厚遇を受けたこと、そして成定・康成・忠成と受け継がれた「常在戦場」の意識を持ち続ける風土に育くまれ、250年後に生を受けた河合継之助がこの思考に結実した気がした。この思考とは言うまでもなく、ヨーロッパの生国ながら存在感を持ち続けるスイスのように長岡藩が一藩独立し、武士を排した法人化することで薩長に対抗しうる武力と経済力を持ち、徳川家の面子を保たせることであった。しかし、万に一つの可能性に賭けたこの夢は多大な犠牲を伴って会津塩沢村(現在の福島県只見町)で散った。
豊川市牛久保にある牧野成定廟所
現在は道路の整備により通り寺院が縮小された為、神社の境内前に取り残されている。道路を行き交う人々を見守る。
廟所内部
朽ちかけた墓石だが、建物に覆われており保存環境は良い。新しい花がお供えしてある。
墓碑は大垣藩2代藩主・戸田氏信(1600-1681)に嫁いだ牧野忠成の娘・嶺秀院が成定の菩提を弔う為に貞亨元年(1684)に建てた。
案内板
墓碑のことや廟前にある2基の石燈篭が長岡藩9代藩主・忠精(ただきよ1760-1831)によって、
寛政8年(1796)に寄進されたことが書かれている。
大垣に嫁いだ忠成の娘や、長岡に領地をもらった末裔の忠精が成定没後230年経ってなお祖先の功績を忘れず感謝の意を持っていることが伝わる場所であった。愛知県から新潟県までは遠いが、数日かけて長岡牧野家と河井継之助が辿った史跡や戦場をゆっくり巡りたい思いが強くなった。



