歴史上人物のお墓参り⑳田原戸田氏墓所(田原市・長興寺) | nao7248のブログ

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愛知県東部、三河湾の太平洋側にある渥美半島に行った。目的は二つ。

半島最高峰の大山(327m)登山と、田原戸田氏の墓所がある長興寺に行くこと。

目的の一つ目、大山の山頂を目指す。お目当ては山頂からの日の出と、富士山を遠望することだ。

寒く空気の澄んだこの時期、この時間帯に東を向くと富士山と日の出を同時に見えると知り、まだ真っ暗な早朝5:30に登頂開始。

急いで登った為、予想より早く50分ほどで山頂に到達した。写真は山頂展望台から眺める富士山(左隅にある小さい三角形)。

冷たい強風が吹きつけるが火照った体には気持ちいい。日の出までの約15分、この空気と風景に囲まれた至福の時間を過ごす。

後ろを振り返ると渥美半島先端の伊良湖岬、その先の海上には神島が浮かびさらに西に目を向けると答志島、志摩半島が望める。

画像は雨乞山(237m)の途中にある弁当岩から西方の眺め。

画像は載せていないが、北に目を向けると三河湾が一望出来る。湾内には佐久島、篠島、日間賀島がはっきりと見えた。

ここは360度の大パノラマを独り占め出来るとっても贅沢な場所であった。

この登山でiPhoneのありがたみを実感することとなったエピソードを一つ。

夜明け前の真っ暗な登山道を進もうとした時、懐中電灯を持っていないことに気づき一瞬絶望感に襲われた。

しかしすぐにiPhoneのフラッシュ用LEDがあったこと思い出して点灯してみると、足元だけでなく2m先位までの視界全体を照らしてくれて大いに助けられた。全く一台でどんだけお役立ちしてくれるんだよって思った次第。

富士山、遠州灘、伊勢湾、三河湾の風景を堪能し下山、もう一つの目的地である長興寺に向かう。

長興寺山門、元禄7年(1694)の建築。森に囲まれた厳粛な雰囲気の中、小ぶりながらバランスのとれた美しい姿でひっそりと佇む。

山門をくぐり、100mほど進んだ先に現れる中雀門、天保2年(1831)の建築。

低い石垣と回廊に囲われた境内は小規模ながら城郭を思わせる威圧感と荘厳な雰囲気を醸し出している。

境内に入るときれいに手入れされた庭と見事な本堂が姿を現す。背景の山並みと堂々とした容姿にしばし見惚れる。

本堂の左通路を進むとたくさんの並んだお地蔵さんが現れ、一段上がった所に田原戸田氏墓所がある。

正面から入口を望む。戸田氏系図、墓石の案内板があり、田原市教育委員会が史跡の整備に力を入れていることがわかる。

理解しやすく説明されていて見学者にとっては大変ありがたい。

ここには田原戸田氏初代宗光(1439?-1508)から忠能(1586-1647)までの墓石がある。

これが親切な案内板

戸田宗光は室町幕府政所執事・伊勢貞親の代官として15世紀中頃に三河に定住した。

在地領主と縁戚関係を結びつつ尾張知多郡、三河東部渥美郡を巧みな外交戦略で領有するに及び、知多・渥美両半島を股にかけ三河湾の制海権を確立した。さらに領地拡大を目論み渥美半島を北進して二連木城を築城したが、東三河の国人領主・牧野古白(?-1506)と対峙することになり三河統一はならなかった。

宗光の曾孫にあたる康光(?-1547)は、人質として今川家に運ばれる松平竹千代(徳川家康の幼名)を織田信秀に1千貫(または500貫)で売り飛ばすという家康の悲し過ぎる過去の有名な逸話となったが、その張本人である。しかしこの命令違反に激怒した今川義元は康光の田原城を攻め、康光は籠城し奮戦するが衆寡敵せず、嫡男・尭光とともに討死した。これほどのリスクを冒して義元の命令に従わなかった康光の行動には疑問が残るが、今川家の支配に反発する独立志向の強い人物であったのであろう。この時代の国人領主の荒々しい息吹が感じられる非常に興味深い事件である。

一方、康光次男・宣光は父と兄に与せず今川氏家臣として二連木城に封じられ、その後桶狭間合戦で今川義元が討死すると徳川家康に臣従し戸田宗家として松本藩主として明治まで存続し、岐阜加納に分家を多く残す。

もう一つの系譜、康光の弟・光忠は康光が討死した戦で田原城を脱出、岡崎に逃れて松平氏に仕えた。その後今川氏から田原城を奪還して支流ながら田原城主となり、田原戸田家と称されることになった。

そしてここ長興寺には戸田氏初代宗光・2代憲光・3代政光・4代康光・康光の弟忠政・光忠の嫡男で田原戸田家2代忠次(1531-1597)・忠次内室・忠次嫡男の3代尊次(1565-1615)・尊次内室・尊次嫡男の4代忠能(1586-1647)・忠能内室・忠能の弟忠次・忠次内室・九鬼守隆(1573-1632)・九鬼守隆内室・忠能の弟外記の墓がある。

特筆すべきは4代忠能の後を継いだ忠昌とその子たちである。忠能には嗣子が無く、弟忠次の子忠昌(1632-1699)が養子になり跡を継いだ。忠昌は幕府運営に尽力し、昇進を繰り返し老中まで上り詰めた名君である。その功績により跡を継いだ次男・忠真(1651-1729)の代に下野宇都宮藩7万7千石を拝領し明治まで続いた。

また忠昌の弟・忠時(1637-1712)は甲府藩主・徳川綱豊(1662-1712)の家老として8千石を領していたが綱豊が家宣と改名し江戸幕府6代将軍になった為、3千石を加増され1万1千石の足利藩を立藩、明治まで続くことになる。

忠昌の長男は妻の父・秋元富朝(1610-1657)の養子となった秋元喬知(1649-1714)で、5代将軍綱吉、6代家宣の2代にわたって仕え弟忠真と同じく老中まで昇進し武蔵川越藩6万石を領するに至る。

特に目立った武功は無い戸田氏が徳川幕府においては何人もの老中を輩出し、宗家の松本藩、支流宇都宮藩、足利藩と戸田一西(1543-1604)を祖とする大垣藩主家と4家の大名家を明治まで存続した理由が知りたいと思ってここに来たが、この墓を見て先祖はもちろんのこと、内室を大切にしてきたことを感じることが出来た。

主要な合戦において武勇を誇る武将が多い中、領国での留守居を篤実に勤めた戸田氏を家康は貴重な存在と考え、重用したのだろう。

歴代墓所を西に望む。

もう一つ、忠能の正室久昌院の父・九鬼守隆とその内室天翁院の墓石並んで立っており、戸田家との九鬼家の関係の深さを見ることが出来る。三河湾を制した戸田氏と隣接する鳥羽・志摩を領し海賊大名の異名を持つ九鬼家との交流が少なからずあったことは発見であった。

伊良湖岬から数キロ先に神島があり、その先に九鬼氏ゆかりの地・答志島が大山から見える程に両家は海で繋がっていたのだ。

来年の夏、三河湾にマリンジェットを出す日が待ち遠しくなってきた。戦国時代の海の男たちに思いを馳せつつ、答志島を望む神島まで足を延ばしてみようと思う。