歴史上人物のお墓参り⑲平岡頼勝(岐阜県可児市・禅台寺) | nao7248のブログ

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岡田准一主演の映画「関ヶ原」が公開され、自分の中で関ヶ原への思いを新たにする今日この頃。今回は関ヶ原の勝敗を決した最大の要因と言っても過言ではない、小早川秀秋(1582-1602)の西軍への攻撃(すなわち裏切り)を後押しした小早川家の家老・平岡頼勝(1560-1607)のお墓参りに行ってきた。

平岡氏は摂津の国人であったと言われているが父親が頼俊という事以外、出自に関する詳しいことはわかっていない。諸国を流浪する浪人であったが羽柴秀吉に才能を認められて仕官することになったという。永禄3年(1560)生まれは石田三成と同年である。後に関ヶ原で活躍する秀吉子飼いの武将達(福島正則・加藤清正、加藤嘉明ら)とも近い年齢であり、おそらく彼らと同様に秀吉が長浜城主になった頃かその後の播磨攻めの頃に仕官したのであろう。

秀吉と三成の出会いのシーンはあまりにも有名であるが、それと似たような状況があったかあるいは加藤嘉明(1563-1631)のようにすでに秀吉の家臣となっていた知り合い(嘉明の場合は加藤景泰)に推挙されたかもしれない。この時期の秀吉は一介の郎党から一躍近江長浜20万石の城持ち大名に出世した為に譜代の家臣を持っていないことに腐心おり、人材登用は緊急の課題であった。とにかく数撃ちゃ当たる方式で兵士を募集していた時期で、1560年代に生まれた武将たちがその後の秀吉の天下統一事業を補佐しさらに後、2つの派閥に分かれてに関ヶ原で相まみえることになるのである。

しかし頼勝は三成に代表される文治派にも、福島正則代表される武断派にも属していない。上述した子飼いの若武者たちが活躍した賤ヶ岳合戦やその後の九州征伐、小田原征伐で頼勝の武功は見られない。この間の行動は推測するしかないが、秀吉の近習的な位置にいて、馬廻り役とか秀吉と大名との取り次ぎのような役割をしていたのではないだろうか。

寧々の甥っ子である木下秀俊が小早川隆景の養子になった文禄3年(1594)に付家老になるが目立った事績はない。同じ付家老の山口宗永(1545-1600)が家政を取り仕切っていたようで、その補佐をしていたのであろう。慶長3年(1598)に秀秋が朝鮮出兵での失態を秀吉に咎められ筑前から越前に減封の命令を受けるが、この件は徳川家康の取り成しにより取り消され、実際に越前には赴任していない。しかしこの時に山口宗永は秀秋の付家老から加賀大聖寺城主として独立した。

ここから二人の家老・頼勝と稲葉正成(1571-1628)が秀秋を補佐することになる。特に年長者で秀秋への忠誠心が厚い頼勝が主導権を握っていたのではないか。稲葉正成は関ヶ原合戦後に秀秋と対立して美濃に蟄居処分となっているが、頼勝は秀秋が死去するまで奉公し続けたことからもそう言って憚りないであろう。

頼勝は正室が黒田長政の従兄弟である関係から、関ヶ原合戦前から家康指揮下で行動することを約束していた。頼勝にすれば豊臣秀頼への忠誠や感傷などはなく小早川家の行く末が第一であり、小早川家を繁栄させることが自分自身の栄達に繋がると信じていたのではないだろうか。

本戦では、西軍の一部(石田三成隊、宇喜多秀家隊、小西行長隊、大谷吉継隊)の驚異的な奮戦によって午前中の戦局は西軍有利に進む。この状況に主君・秀秋は東軍に味方することを躊躇するが、頼勝は黒田長政の使者からの再三の督促により半ば強引に西軍への攻撃を決行させた。

秀秋は東軍勝利の恩賞として宇喜多秀家の旧領・備前岡山55万石に加増移封されたがその代償として世間から裏切り者の蔑みを受け、そのストレスからか生来の酒好きに拍車がかかって戦後2年経った慶長7年(1602)10月18日に21歳の若さで死去した。

頼勝は主家改易後に浪人したが、慶長9年(1604)に家康に登用され美濃徳野(岐阜県可児市)1万石の大名となった。慶長12年(1607)この地で48年の生涯を閉じた。

平岡山 禅台寺入り口の門

禅台寺本堂

最近建て替えられたのか、建物も庭もきれいで明るい寺であった。

本堂の左側を抜けた坂道の上に頼勝の墓石がある。

小ぶりな五輪塔だが、石の柵に囲まれ大事に守られていることが伝わってくる。

小説「関ヶ原」を読んだ十代の頃は主君に裏切りを勧めた小賢しい家老というイメージであったが、頼勝の生涯を振り返ると実直に自らの職務を全うしようとする姿が思い浮かぶ。関ヶ原本戦の判断も、賢明な判断だったと今の私なら思う。結果的に家康もその人物を見込んで浪人の境涯から大名に復帰させる形で召し抱えたのだ。

禅台寺から木曽川沿いに少し車を走らせた船着場・兼山湊跡近くにある福光山 専養寺。ここに頼勝の子で徳野藩二代藩主・頼資(1605-1653)のお墓がある。

 

承応二年(1653)正月八日の文字が刻まれた立派な墓石であった。

平岡家は頼資の息子 頼重(生年不詳-1673)の時に庶兄 新十郎との家督争いがあり1000石に減封となるも、その後子孫が加増を受け最終的には6000石の大身旗本として存続した。

山と川に挟まれた閑静な場所でひっそりと時を刻む。