私が歴史に興味を持つきっかけになった司馬遼太郎著の「関ヶ原」が映画化され、公開が今週土曜日26日に迫った。関ヶ原の合戦に至る経緯、関係する人々の葛藤、心理状態から戦闘中の経過と首謀者石田三成の最期まで鮮明に描かれている名作中の名作であり私のバイブルでもある。この映画の感想は見た後に述べるとして、今回この関ヶ原合戦で不可解な行動を執った豊臣政権五奉行の一人、増田長盛(ましたながもり・1545-1615)の墓所を参拝した。
この人物、五奉行の一人として石田三成の指揮下で行動すると思いきや、密かに相手方の徳川家康に三成の行動や戦略を報告するという愚挙に出て保身を図り、その結果領地没収、改易となる。
武蔵岩槻城主・高力清長(1530-1608)に預かりの身となり大阪の陣後に切腹を命じられた。墓は知恵伊豆の呼称で有名な川越藩主・松平信綱(1596-1662)の一族のが菩提寺とした埼玉県新座市の平林寺にある。彼がなぜこの行動を執るに至ったのか、彼の立場と心理を想像しつつ考えたい。
天文14年(1545)の生まれ、生誕地は2説ありはっきりしたことはわかっていない。一つ目は尾張出生説。愛知県稲沢市増田南町にある八幡神社に増田長盛邸址の石碑が建っている。
本殿の右奥に石碑が見える。
もう一つは近江出生説で、滋賀県長浜市に石碑があるという。
長盛が秀吉に仕える前の前半生については全くといっていいほど情報がなく、父親の名前すらわかっていない。
秀吉は長浜城主になった時に多くの家臣を召し抱えた。石田三成、大谷吉継といった近江衆と共に尾張からも低い身分から出世した地元の英雄秀吉と頼って多くの若者が仕官した。後の賤ヶ岳合戦で功名した福島正則、加藤清正に代表される七本槍は有名である。この秀吉直属の小姓団が豊臣政権を支える存在になっていくわけであるが、長盛もこの時に仕官した。
尾張出生を仮説とすると、その出生伝承地が浅野長政の養父・長勝の所領に近いことから秀吉の目に止まることが多くなったことが考えられる。しかし五奉行時代の長盛は浅野長政や尾張系家臣団の相談役になっていた寧々と親密な関係であった形跡がなく、むしろ石田三成との関係が深いように思える。とは言え近江系で親密であった人物も見当たらないので、派閥に属するとか他人と徒党を組むことが得意ではない、一匹狼的な人物像が浮かび上がってくる。
平林寺墓所にある案内板
これによると天正元年(1573)近江東浅井郡びわ町大字益田にある
益田山真宗寺の住職増田祐感の次男として生まれた、とある。
増田長盛の末裔の方が記載されているのでこれが事実と考えるべきではあるが、天正12年(1584)の小牧・長久手合戦と続く同13年(1585)紀州征伐で武功を上げ2万石に加増、従五位下右衛門尉の官位を授かったことが記録に残っており11,12歳(現代の小学校5,6年生)でそれほどの大仕事をやってのけることは考えにくい。
いずれにしても出自に関しての確証はなく、集めた情報を整理して推察すると生年、その他に関する情報はウィキペディアを事実と考え、出生地は近江長浜にある真宗寺と考えるのが妥当ではないだろうか。石田三成と似たような経緯で召し抱えられたのであろう。愛知在住の小生としては尾張説を推したかったが…。
その後の経歴は実に華々しい。天正18年(1590)の小田原征伐では安房国の里見義康(1573-1603)の取次(申次・奏者ともいう、外交窓口)となり安房国で検地を実施する。北条氏の滅亡後は関東の大名に対する取次として秀吉の期待に応えた結果、近江水口6万石に加増された。石田三成、長束正家らと共に太閤検地を施行し、橋梁や城の改修・増築等の普請でも中心的な役割を担い秀吉の天下統一事業において存在価値を高めていく。
朝鮮出兵(文禄の役・1592)においては三成、吉継と共に漢城に駐留して占領地の統治や兵站をこなした他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦い(1593)に参加している。
これらの功を認められ、秀吉の養子・秀保(1579-1595)が17歳で急死した文禄4年(1595)にその所領大和郡山20万石が長盛に与えられた。
秀吉は天下統一を縁の下で支え続けた功労者で実弟の秀長(1540-1591)に大和・和泉・紀伊の3ヶ国120万石を与えていた。
大和郡山は筒井順慶の所領であったが天正12年(1584)に35歳で急死した後、後継者の筒井定次を伊賀に移封してまでして、弟秀長に大和を与えた。秀吉は賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を滅ぼした天正11年(1583)から大阪城の建設に着手しており、大阪、京都、奈良、紀州まで含めた畿内全域を身内で支配下に置きたかったわけだ。
秀長・秀保死後にこの地を与えられた長盛に対する秀吉の信頼度がいかに大きかったかがわかる。
また、秀吉最晩年には慶長4年(1599)に計画されていた朝鮮出兵(慶長の役)で福島正則、石田三成と共に出征軍の大将に任命されていた。しかしこれは慶長3年(1598)8月に秀吉が没した為実現しなかった。
この経歴から奉行として土木・建築・兵站等の行政手腕と戦闘指揮官としての手腕を併せ持つ万能万能タイプの武将像を描くことが出来る。
ゲーム「信長の野望」では政治力だけが突出して高く、戦闘力は最小レベルであるが、このイメージは少なからず変えるべきと考える。
とは言え、武将として人生を懸けた大舞台を前にして前述した家康への密告や戦場に向かわず大阪城で豊臣秀頼に近侍し続けた行動は残念でならない。氏素性もない身から五奉行として国政を動かす身分に上り詰め大和郡山20万石の城主になった手腕は賞賛に値するが、所詮は一介の行政官であり戦場においては一群の侍大将であった。石田三成のように秀吉と天下の仕置きを行いながら、全国規模で政治情勢を考えることも出来なければ、大戦略を構想することなど考え付きもしなかったのであろう。
ただし、この小説を読んだ十代の頃にはそんな批判的な部分しか見えなかったが、今では多少なりとも長盛の気持ちを察することが出来るようになった。これほどの重大な局面を前にして、どっちに対してもいい顔をして東西を天秤にかけつつ、戦況が良くなった方になだれ込むことは政略としては間違っていない。最後に大勝負を張ることが出来なかっただけのことである。
結果として戦後自ら高野山に入り大和郡山城も無抵抗で開城させた為に助命された。しかし、前述した武蔵岩槻城の高力清長お預かりとなり慶長19年(1614)家康に召喚され大阪方との和睦の仲介を依頼されるがこれを断り、元和元年(1615)尾張藩に仕官していた息子・盛次(1580-1615)と相談の上、藩主徳川義直の了解のもとに尾張徳川家を出奔し大阪方に付いた。戦後、この責任を問われ自害を命じられた。
最期の一連の行動に、関ヶ原での不甲斐ない自分を払拭しようとする決意が感じれられ、長盛の一生を清々しくしていると言える。
しかし他方、何とも中途半端な判断ですっきりしない感情が残るのも正直なところ。関ヶ原で命だけは長らえることが出来たわけで、尾張徳川家に仕官した息子を頼り余生を過ごすことも出来たであろう。
高力家に預かりの身分として生活する間に、徳川の治政がゆるぎないことを悟り、今後自分が世に出ることはないであろうと思い至ったのではないだろうか。とにかく、最後の最後は保身に走らなかった長盛の人生を悼み合掌した。
平林寺の境内案内板
広大な森の中のわずかな一角にひっそりと建物が立ち並ぶ。総門、山門、本堂、庫裡が一直線に配置され、荘厳な雰囲気に包まれる。
山門からの参道を左に逸れて森の中の小道を進むと墓所群が目に入ってきた。武田信玄の娘・県性院の宝篋印塔に隣接した場所にある。
最初に紹介した案内板がお墓の前に建つ。
鬱蒼とした森の中で静かに時を刻んでいる。