歴史上人物のお墓参り⑯深溝松平家廟所(幸田町・本光寺) | nao7248のブログ

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前回に引き続き、十八松平の一つ深溝(ふこうず)松平家の菩提寺で歴代当主やその夫人の廟所がある本光寺(額田郡幸田町)に行ってきた。あじさいの名所としても有名なお寺で、この時期は特に見応えがあった。椿も寺の裏山に5,000本が植えられているようで、春先の3月~4月にかけて見頃とのこと。

山門を入ると13代忠候(ただこれ・1799-1840)夫人・天妙院の巨大な墓石が出迎えてくれる。右隣にあるのは15代忠精(ただきよ・1832-1859)夫人・俊光院の墓。

深溝松平家は松平宗家三代信光(1404-1488)の七男・忠景(五井松平家の祖・?-1485)の次男・忠定(生没年不詳)が深溝城を与えられた大永4年(1524)に始まる。廟所は境内の東西に配置されており、西廟所には御先祖堂と称された初代~5代と11代忠恕(1740-1792)の墓がある。

2代好景(1517-1561)、3代伊忠(これただ・1537-1575)と宗家家康の岡崎での独立から三河平定に尽力したが、著名な当主は4代家忠(1555-1600)であろう。徳川家の筆頭家老で吉田城主であった酒井忠次(1527-1596)の配下で父・伊忠とともに長篠の戦い(1575年5月)に参戦したが、この戦で父が戦死した為21歳で家督を継いだ。この前後に刈谷城主・水野信元(?-1576)の弟・忠分(ただわけ・1537-1579)の娘を妻に迎えている。その後家康の天下取りに向けた戦いに従軍するが、武功よりも戦場の前線基地となる付城や城郭の普請や補修の功が多く、土木・建築の技能があったことがうかがえる。家忠の半生は自らが残した家忠日記に天正3年(1575)から文禄3年(1594)までの17年間の事象が簡潔に記されており、当時の大名の日常や行動を知る上で貴重な史料になっている。

武将としての家忠の活躍は何と言っても関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城の戦いであろう。慶長5年(1600)会津の上杉景勝を討伐するために、名目は豊臣家安泰の為として五大老筆頭の家康が大阪を立ち東進することになった。家康は大阪を留守中に石田三成一派(三成本人は近江佐和山に在城)が挙兵することを予測していたが上方から徳川勢を全て引き連れていくわけにもいかず、大坂方における最初の関門にして家康側の最前線基地である伏見城に立てこもり防戦する部隊を配備した。言うまでもなく伏見は大阪方主力部隊の通過点にあり、防ぎきれる確率は0、生きて帰ることはない役目の大将に鳥居元忠(1539-1600)、副将に松平家忠、内藤家長(1546-1600)が選ばれた。大将の鳥居元忠は家康幼少時、駿河今川家の人質時代から付き添ってきた家族同然の間柄でありまた歴戦の勇者でもある為、最適かつこれ以上はない人事と言える。また家忠、家長も元忠ほどの経歴はないが徳川家への忠義心と武骨さは負けず劣らずの人物で、この死地を前にして悲しむとか臆するというマイナスに捉えるタイプではなく、逆に「よくぞ私を選んでくれた、ありがたし」的に捉え勇奮するであろうことを見越した見事な人事である。このあたりが家康の天下人たる由縁と言えるかもしれない。織田信長は天才的軍略化ではあったが、家臣の心情に気を配るようなこういう感覚が欠如していた為に、明智光秀の謀反を引き起こしてしまったといえる。

戦は大阪方本軍4万に対して伏見城守備軍は1800の寡兵でありながら一枚岩の頑強さで10日以上も持ちこたえ、関ヶ原本戦までの大阪方のその後の作戦が家康軍に対して後手後手に回らざるを得ない状況を作り上げることに成功した。

そんな私利私欲なく徳川家に献身的に尽くす姿は後世にも引き継がれた。子孫は深溝藩主からお隣の吉田藩主を経て天草・島原藩6万5千石で明治維新を迎える。家忠の嫡孫・忠房(1619-1700)は島原の乱(1637)後の不安定な藩政と長崎奉行所を監督する役目を与えられ幕府の期待に応えるが、その後は相次ぐ当主の早世と寛政4年(1792)の普賢岳の噴火に象徴されるように凶作・飢饉に見舞われるなど多難な藩政であった。

肖影堂・6代忠房が先代の父忠利(1582-1632)を祀る為に寛文12年(1672)位牌堂として建立した。

中に忠利公木造が安置されている。彩色が残っており、実に見事な木造である。父への尊敬と哀悼の念が伝わり、心地いい空間であった。

お隣西尾市にある長円寺には板倉勝重を偲んで建てられた肖影堂がある。寛永7年(1620)の建立なので、松平忠房はこの長円寺肖影堂を参考にしたのではないだろうか。ただしこちらの扉は閉じられており、板倉勝重公の木造を見ることは出来なかった。(シリーズの⑤を参照)

 

深溝松平家一族は江戸時代を通じて最も過酷と言える土地を治めることになったが最後まで藩主を勤め続けて徳川家への忠義を貫いた。

そんな中、歴代当主の遺骸は遠く天草半島・島原から船で送られ、この地に埋蔵され続けた。

東廟所に6~10代、12~19代当主の墓がある。こちらは形と大きさが統一された石室になっており、見事な墓所であった。

境内の東側に伸びる石段の先に廟所入り口が見える。寺から少し離れた場所にあってこのような通路を歩いていくこの感じがお墓マニアにとって至福の時間。私の顔で推察出来よう。この写真は2週間前なのでまだ4分咲きといったところ。今がちょうど満開の時期なのだろう。

門をくぐると墓石群が広がる。その最も奥の並びにある15代忠精の墓石(入り口にあった俊光院の夫)。

徳川家を守る鉄壁の一族、その層の厚さを思い知らされることになった前回と今回の松平家廟所巡りであった。そして本光寺は見所満載で心地良い印象と満足感が残るお寺であった。早朝に入った為に宝物館が開館しておらず残念であった。椿の時期に再訪して、その時は宝物史料までしっかり見学したいと思う。