歴史上人物のお墓参り⑮大給松平家廟所(岡崎・奥殿陣屋) | nao7248のブログ

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徳川家康の天下取りから江戸幕府の成立と政権を安定させるまで、陰に陽に家康と宗家を支えた続けたのが十八松平と呼ばれる家康の時代までに分家した松平氏の一族である。

今回、そのうちの一つ松平氏第4代の当主・親忠(1431/1438?-1501)の次男乗元の流れをくむ大給松平氏の廟所がある岡崎市奥殿陣屋に行ってきた。

徳川氏発祥の地、三河松平郷と岡崎岩津の中間に位置する大給(おぎゅう)の地を領した為、大給松平家と呼ばれる。

歴史的には、三河の山間部にあった松平氏を岡崎平野部からさらに安祥城を奪取して西三河に進出し、一躍中原の穀倉地帯を治める

大勢力に成長させた第3代当主信光(1404-1488)の嫡男・親忠が次男・乗元(1446-1537)に大給城を与えたのが始まりである。

江戸時代に1万6千石を領し立藩した大給藩であったが、山間部で不便になった為、宝永4年(1708)に岡崎平野の手前に位置する奥殿に陣屋を建設し移転した。

移築復元された当時の陣屋建築である書院。この奥に大給松平家廟所がある。

緩やかな坂を登りつつ山中に足を踏み入れた先に立派な石垣ときれいな白漆喰の塀に囲まれた廟所がある。

ここには家祖真次(さねつぐ・1577-1646)から十代乗利(1811-1854)までの墓石群が建っている。

家祖となった真次は大阪の陣で活躍し関東に領地を賜ったが、先祖ゆかりの地である奥殿を望み6千石を受領した。

その子二代乗次(1632-1687)が幕府要職を務めた功により1万石を加増され大名となり、以来幕末まで領地も石高も変わらずこの地を支配した。

初代真次は巨大な五輪塔の形式で、御母堂の墓が隣設する。

特筆すべきは奥殿藩4代藩主乗友(1760-1824)と嫡男で6代藩主乗羨(のりよし・1791-1827)であろう。

石高も小規模で耕作地としては決して広くないこの地で善政を行っていたことが予想されるが、文化人と結びつきがあり特に裏千家とは密接関係であった。乗羨の次弟で尾張藩家老・渡辺家の養子になった規綱(1792-1871)は又日庵と号した茶人であり、さらにその実弟・精中宗室は裏千家の養子となり11代玄々斎を名乗り規綱の仲介で尾張藩12代徳川斉荘(なりかた・1810-1845)の茶道の師となった。この3男精中宗室を裏千家と結びつけたのが長兄乗羨であった。二条城在番勤務中に裏千家10代認得斎の手造りの水指を乗羨が釉をかけて焼いたというエピソードがある程に仲が良かったことがうかがえる。

認得斎に男子がなかったので松平家3男に養子の白羽の矢が立ったのであろう。尾張に比べ田舎者と揶揄されることもあるこの地で上方文化の茶の湯に秀でた人物がいたことを一人誇らしく思うのであった。

左から乗友、乗羨、乗羨夫人の墓

これは最初にブログに載せた渡辺守綱(1542-1620)の菩提寺・守綱寺の案内板。文中に渡辺家10代規綱とその弟玄々斎の事績に触れている。

8代乗伊(のぶただ・実際は人偏が付かない・1777-1818)の墓はこの廟所より北西約200m先にある旧林宮寺墓地にあると案内板に書かれており、周辺を散策してみたが見つけられなかった。大給城址には大給松平家の祖・乗元の墓があるので、これと合わせていずれ時間を作ってゆっくり歩いてみようと思う。

この後兄の嫡男乗羨に家督を譲り、その後に自身の息子が晩年に生まれた為、旗本永井家の養子となった。この人こそ幕末に徳川慶喜の信任を得て箱館まで新政府と戦い続けた永井直志(なおむね・1816-1891)である。この墓は東京・西日暮里の本行寺にある。

最後まで徳川家にその身を捧げた姿勢が、先祖代々の地から受け継がれた三河武士の心意気を物語っているようで清々しい。