歴史上人物のお墓参り⑭村上義光・義隆父子(奈良・吉野)後編 | nao7248のブログ

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前回の続き、修験道の開祖と言われる役小角像

愛知県蒲郡市にある御堂山(363.5m)山頂で見つけた。こんな縁もゆかりもなさそうな場所にあるということは、この類の銅像は各地に見られるのではないか。今でも修験道の霊場巡りがさかんに行われていて、その開祖である役小角への崇敬の厚さがわかる。

さて、吉野神宮から金峯山寺に向かう途中に村上義光(よしてる・?-1333)のお墓がある。後醍醐天皇の皇子・護良親王(1308-1335)の忠臣で、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すまでの一連の戦乱である元弘の乱(1331-1333)の初期、幕府軍に笠置山を追われた時に親王に供奉した9名の内の一人として太平記に登場する人物だ。

太平記の時代については小生まだまだ研究不足のため、墓所入口にある案内板の解説を転用させていただく。この内容が大変わかりやすく、義光の人物像をおぼろげながら浮かび上がらせることが出来た。「村上彦四郎義光は信州更科の人で、早くから大塔宮護良親王に従って鎌倉幕府・北条氏と戦いましたが元弘三年(1333)吉野城陥落の時大塔宮の身代わりとなって蔵王堂前の二天門高矢倉の上で腹を掻き切って絶命しました。その首を見聞した北条方が大塔宮でないことを知りこの場所に捨てられたのを、里人が弔い墓としたものです。なお義光の子義隆もこの時に父と共に死のうとしたのを、大塔宮を守って落延びるよう諭され高野山に向かう途中追ってきた敵と戦い、ついにここから2kmほど隔てた山中で討死しました。」

義光は護良親王から直接討幕の意思を告げられ、全身全霊を賭けて従うことを誓ったと言われている。

また切腹の際に切った腹から腸を掴み取り相手に投げつけたと言い伝えられている。親王を慕う気持ちの強さとよほどの無念が伝わるエピソードである。

背景は違うが、秀吉に追い詰められて知多で切腹した織田信孝(1558-1583)もはらわたを投げつけたことで有名である。信孝の秀吉の憎悪と無念がよく表れている。義光の死から250年後のことである。

村上義光の墓 早朝であるがすでに献花が供えられていた。お墓を建てた里人の気持ちがいまだに守られているような気がした。

墓の隣に大和高取藩士・内藤景文が義光の死後440年後の天明三年(1773)の建立した忠烈碑なる石板が立っている。

武士の鏡として敬われていたことがわかる。

義光の墓から1km先に金峯山寺があり、さらにその1km先に義隆の墓がある。この距離感から金峯山寺蔵王堂を中心に戦いが行われたことを体感することが出来た。

村上義隆討死の地に建つ墓石 山中にひっそりと佇む。

追っ手を逃れながら切り伏せては走り切り伏せては走り、遂にこの地で闘死したのであろう、何もない状況がそれを想像させるにふさわしい。ここにも義光の墓にあったものと同じ献花が供えられていた。

 

南朝皇居・吉水神社

元は先に紹介した役小角が創建した金峯山寺の僧坊・吉水院で、住職の宗信法印の援助で後醍醐天皇が皇居とした。

これより150年ほど前に兄頼朝の追っ手から逃げこんだ源義経が隠れ住んだ場所でもあり、豊臣秀吉が文禄三年(1594)に行った花見の宴で本陣とした場所である。時の権力者と、権力の座を追われた者がここに辿り着く、そんな不思議な魅力と哀愁を漂わせる空間であった。

国の重要文化財である書院 初期書院造の傑作と言われる書院建築

 

太閤秀吉の花見本陣の碑と後醍醐天皇が京都を思い日々眺めたと言われる敷地の北側にある門

 

吉水神社書院前の庭から眺める金峯山寺蔵王堂

均整のとれた檜皮葺の屋根のこげ茶色が青空によく映える。

後醍醐天皇も日々この風景を眺めたと思うと一層趣深い風景である。

このあと56年間も続く南北朝時代の立役者となった後醍醐天皇であるが、幾多の犠牲者を出し悲劇を生みながらも天皇の志に命を捧げる者たちが数多くいたことについては、今後の研究材料としたい。