歴史上人物のお墓参り⑭村上義光・義隆父子(奈良・吉野)前編 | nao7248のブログ

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このタイトルで書きだしたものの、本題に入るまでに奈良と吉野について思うままに書いていきたいので、村上父子については後編で書こうと思っている。

私が学生時代を過ごした奈良県は南北に長く瓜のような形をしている。その大半は紀伊山地の山岳地帯で、今回旅した吉野がその入口に当たる。私が住んでいたのは奈良市の北端で、桜や南北朝時代に南朝が置かれたことで有名な吉野には一度しか行ったことがなく、その一回もバイクで走り抜ける途中に休憩する程度だったので、記憶はあまりない。

大学の同級で宇陀市に住むK君と会うようになってから、奈良県中部に位置する吉野山を中心とした一帯の歴史の深さに興味を持つようになり、今回K君宅に一泊させてもらい、この日仕事の彼を起こさないように早朝に出発して念願の吉野の史跡を巡ってきた。

目的、というと仕事っぽくなるが、テーマ的には国宝建築の金峯山寺蔵王堂を見ること、この地に関わった人物と吉野の歴史を知ることだ。

今回、吉野に行ってどうしても知りたいことが3つあった。

一つは、なぜこの場所がこれだけ有名な場所になったか、ということ。

二つ目に、古くは源義経が追っ手を逃れて潜伏したり、足利尊氏に京を追われた後醍醐天皇が南朝を立てたりと、時代を跨いだ歴史的な逸話がなぜこれほど多いのか、ということ。

三つ目はなぜ千本桜で有名な桜の名所になったのか、ということ。

偉そうに言ってはみたが、何も知らない者の初歩的疑問である。

一つ目と三つ目は、金峯山寺に行って全て解決した。

というのも、金峯山寺の創立が答えそのものであったのだ。金峯山寺の由緒から抜粋すると、7世紀後半の白鳳年間に役小角(えんのおづの・伝634-701?役行者ともいう)がこの地で修験道を始め、吉野の南方20数kmの大峰山系にある山上ヶ岳(標高1,719m)で金剛蔵王権現を感得するに至る。その容姿を山桜の木で彫刻として吉野山と山上ヶ岳にお堂を建ててお祀りしたのが、山上山下の蔵王堂の始まりとなり金峯山寺の創始であった。山岳信仰に厚い日本においてこれ以降、修験道の中心的な道場として発展していくのである。

そして役小角が金剛蔵王権現を山桜で彫ったことから山桜をご神木として保護、献木した為これだけの桜が生い茂ることになったのだ。

これが一つ目と三つ目の答え。

上千本と呼ばれ、源義経の家来・佐藤忠信が敵将・横川覚範を討ち取った場所と伝わる花矢倉から蔵王堂一帯を望む。

二つ目の知りたいこと、この写真の説明で前述したように歴史的な逸話が多いのはなぜか、についてはこの旅で自分なりに導いたことを答えとしよう。

当時の政府や権力者と対立した政治的重要人物が潜伏するのに使われた背景として、都・京から適度に離れていること。時の権力者と対立し戦闘で敗退した結果辿り着く場所として、追っ手から逃れた後、安全を確保出来る地理的条件を満たしていたという点が上げられる。また、ただ山中に身を潜めるだけでは生活に不便をきたす為、高貴な身分の人を安全かつある程度の贅沢と優雅な生活が送れる環境が必要である。この吉野の地は修験道の道場として繁栄した地であり、また吉野大衆と呼ばれた僧兵を抱えた独立宗教国家を形成しており時の政治的権力からは超然とする立場であったことがその要因であったと考える。

さらに政治的人物以外にも修験道の聖地であるこの地を愛した人物がいる。旅に生きた漂泊の僧で歌人の西行法師(1118-1190)である。

吉野 西行庵 前述した上千本の花矢倉から吉野水分神社、金峯神社を経た山中にひっそりと佇む。

他に京都 皆如庵、香川善通寺の水茎の岡 西行庵がある。

中の様子と西行法師像 華美なものを捨て無を追求する雰囲気に包まれた静寂の空間。心が洗われる場所であった。建物の近くにあった案内板に、法師が吉野で詠んだ歌4首が書かれている。

この近くに、法師の和歌にも登場する苔清水と呼ばれる湧水がある。

法師の生き様を思い俳聖・松尾芭蕉も二度吉野を訪れており、この苔清水を題材に一句詠んでいる。「露とくとく 試みに 浮世すすがばや」

自分なりに解釈すると、苔清水の露は絶えることないから、試しに浮世を捨てて閑居してみるか。と自分にはとても真似出来ないことを自虐的に表したように思われる。この生き方には大いに憧れるが、現実には…芭蕉の句に大いに共感し、この場を去る。