歴史上人物のお墓参り⑬松平定勝(桑名・照源寺) | nao7248のブログ

nao7248のブログ

ブログの説明を入力します。

前回お墓参りした久松俊勝と於大の方には3人の息子がいたが、その3番目の息子である松平定勝(1560-1624)のお墓に行ってきた。

この人物、あまり知られていないが後世にも影響を及ぼすことになるくらい、徳川幕府にとって重要な人物であることがわかったので紹介したい。

久松俊勝と於大の方の息子たちは徳川家康の異母弟にあたり、桶狭間の戦いの後、家康は今川家から独立した際に久松俊勝・於大の方夫妻と共に引き取られ、家臣に加えられた。

前回紹介したが父・俊勝は天正3年(1576)に不本意ながらも家康の信長に対する政治的な配慮から於大の方の兄・水野信元の暗殺に一役買ってしまい、失意と家康への抗議行動からすぐに隠居してしまった。家督は嫡男・康元(1552-1603)が継ぎ、天正18年(1590)の小田原征伐後に家康が関東に移封されるとこれに従い下総関宿藩2万石の領主となる。

次兄・康俊(1552-1586)は当時の徳川家がまだ本国三河の平定に四苦八苦していた情勢下で、永禄6年(1563)に人質として今川家に出され、同11年(1568)の今川家滅亡後は武田家の人質として甲斐国へと送られた。その後元亀元年(1570)に家康の策略により甲斐を脱出することに成功したが、冬の逃避行で両足の指を凍傷で失うことになった。

私は1,000m前後の低山を登ることを趣味の一つにしているが、ひと月ほど前に行った日本コバという山がまだまだ雪深く、靴に雪が入って足先が冷えた為に登山開始1時間で断念して引き返したことがある。

登山靴を履いていても大変な状況であるのに、草鞋か地下足袋で甲斐から浜松までを踏破するのは現代人からすれば想像を絶する強行軍であったであろう。康俊の苦難を思い敬意を込めて、合掌。

写真は日本コバ登山口の様子。この先進むにつれて雪はどんどん深くなっていくので、登山初級者にはちょっとした恐怖を感じた。

さて、話を元に戻そう。

息子たちと離れて暮らす状況に於大の方は寂しさを募らせており、かつて今川家の人質として駿府に行った竹千代(後の家康)を思い連絡を欠かさなかった彼女にとって末弟の定勝は手元から離したくないという思いが強くなっていた。小牧・長久手の戦いが終結した天正12年(1584)に、秀吉から和睦の証として定勝を人質に差し出すことを要求されるが、於大の方が頑なに拒絶した為代わりに於義丸(後の結城秀康)が秀吉の養子(体の良い人質)となることで解決した。本能寺の変後、旧武田家の領土である信州・甲斐・駿河を掌握して120万石相当の大大名となった徳川家はそう易々と秀吉の軍門に下ることを良しとせず、しかし表面的には秀吉に従う素振りを見せておく必要があった。家康は正室・築山殿の奥女中に産ませた子である於義丸の処遇を苦慮していた矢先のことであり、利用価値が出来たことは家康にとって渡りに船であったのだ。この何とも切ない運命を背負って生まれた結城秀康(1574-1607)という人物もまた、私にとって大変興味深い人物である。

於大の方に守られた定勝は戦場よりも後方支援の役目を与えられ、

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦は家康本国江戸城の留守居役を務めて着実に家康の信頼を得ていく。

天正15年(1587)に父・俊勝が死去すると三河安楽寺に葬り、慶長6年(1602)に母・於大の方が伏見城で死去すると霊柩の護衛にあたる。

大阪の陣後の元和2年(1616)に伊勢桑名藩11万石を拝領する。

この時代において、大名級の子息が生後から母親の元で成長することが出来た稀有の存在と言えるかもしれない。

そのことが定勝の温厚で篤実な人柄を育み、家康好みの質実剛健な判断力を持った人物になった要因であるとすれば於大の方こそ、徳川家を支えた影の功労者と言えるのではないか。家康の生母である時点で全てにおいての功労者であることは言うまでもないのだが。

家康、秀忠、家光と続く将軍3代に厚い信任を受け、定勝の存在が後の大老職の原形になったと言われている。

寛永元年(1624)、桑名城にて65年の生涯を閉じる。

2代将軍秀忠の命により、長男定吉が早世した為嫡男となった次男・定行が父・定勝の菩提を弔う為に建立した桑名・照源寺に葬られる。

寛永元年(1624)建立の照源寺・山門 

松平家一統墓所の入口

鬱蒼とした森の雰囲気や木々の太さが長い年月を感じさせる。

 

桑名少将と呼ばれた松平定勝公の墓所 墓碑には少将の文字。

 

定勝公墓所の隣には正室・たつ(二之丸殿・奥平信昌養女、奥平貞友の娘)の墓石が並んで鎮座する。

その後の久松松平家を繁栄させることになる子息たちを産んだ。

写真を載せきれないが、桑名藩の歴代藩主・妻、家老級家臣の墓石に埋め尽くされ、墓地特有の荘厳な雰囲気が一帯に立ち込める。

壮観の一言に尽きる。

その息子たちも徳川家に忠実であり優秀な人材を輩出し続けた。

次男定行は司馬遼太郎の名著「坂の上の雲」の舞台となる伊予松山藩15万石を明治まで存続させ、多くの藩士が明治以降も活躍した。

所領の桑名は3男定綱が大垣藩主を経て寛永12年(1635)に着任した。この家系はその後寛政の改革で有名な松平定信(1759-1829)に繋がり、幕末には最後の将軍となる徳川慶喜(1837-1913)を支えた松平容保(1836-1893)の実弟定敬(1847-1908)へと続き、初代定勝から継承された忠義を最後まで貫き、官軍に抵抗し続けた姿勢は感動に値する。特に、著名ではないが幕末に朝敵とされながら箱館戦争まで従軍した定敬の行動には心を揺さぶられて止まない。