歴史上人物のお墓参り⑫土岐頼芸(岐阜県揖斐川町) | nao7248のブログ

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まずは長い前置きとして前回に続き、斎藤道三について書き残したこと。

戦国エンターテイメントマガジン歴史人No.71.2016.11号P18より

近年岐阜県史編纂の過程で見つかった「六角承禎書写」永禄3年(1560)7月付の文書に、「斎藤義龍の祖父が京都妙覚寺の僧で美濃に来て西村氏、ついで長井氏に仕え新左衛門尉を名乗るようになった。その後義龍の父左近太夫(道三)が主家を追いやって斎藤氏を名乗る。」といった内容が書かれているという。この文書は信憑性が高く第一級の資料であるとのことで、美濃の国盗りは父子二代にわたる事業であった可能性が高くなったという。

そうなると道三はすでに土岐家の準家老級の家格を手に入れていることになる。

この地位から下剋上を成し遂げた人物ならすぐに思いつくだけでも有名所では安芸の毛利元就や土佐の長宗我部元親、少しマニアックではあるが越前の朝倉孝景や北近江の浅井亮政、備前の宇喜多直家、道三の宿敵織田信秀などいくらでもいるのではないか。

ここまで道三を有名にした唯一無二の魅力、「一介の油売りから美濃一国を手に入れた男」というパンチの利いたフレーズが使えないではないか。

第一級資料を否定するつもりはないが、父子二代説を決定づけるにはちょっと説得力に欠ける気がしたので、ご批判は甘んじて受ける覚悟で自分なりの意見を述べてみる。

その他の文書からも長井新左衛門尉の名前が出てくるということであるが、美濃はその後道三の孫にあたる龍興の代で信長に滅ぼされたために残っている資料は少ない上に、すでに道三が統一する前から美濃は家督争いが絶えず斎藤氏、長井氏の家系図には不明な点が多く、特定出来ない人物も少なくない。

長井某と名前が出てきても誰の親類縁者なのか、血縁関係が複雑すぎてわからないのが実情ではないか。

まあそれはいいとして、道三の肖像画や事績を裏付けるような遺品・遺構を450年間守り続けてきた常在寺に道三、義龍、龍興の位牌があるが、新左衛門尉に関する遺品や供養品が何もないのはどうにも解せない。単なる歴史好きで時代考証においては素人である筆者としては論より証拠、やはり人物像が少しでも見えてきそうな何らかの遺構が発見されるまでは、私は司馬遼太郎氏の「国盗り物語」をベースにした道三像を大切にしたいと思っている。

ここから本題。

道三に追放された土岐頼芸(よりのり・1502-1582)の墓をお参りした。

揖斐川町にある法雲寺

石段を昇った先、山門の手前左手にひっそりと墓石が佇んでいる。

近習として仕えた家臣達の墓が両脇を固めている。

天正10年12月4日と掘られている。

五輪塔ではなく自然石というところが、没落した武家貴族を象徴しているようで感慨深い。

美濃国守護・土岐政房(1457-1519)の次男であったが、父は頼芸を溺愛して兄の頼武(生没年不詳)を廃嫡しようとしたため兄弟をそれぞれ擁立する家臣団ともども家中を二分した対立を引き起こし、一旦は兄・頼武が勝利した。

しかしここから道三の活躍で頼武一派を越前に追放して享禄3年(1530)に「濃州太守」と自称し天文5年(1536)には勅許を得てついに正式に美濃守護となった。

しかしすでに美濃の守護が名ばかりの傀儡であることは斎藤妙椿の時代から明白になっており、天文11年(1542)に道三によって美濃を追放され、頼芸は尾張の織田信秀の元に身を寄せることになった。その後道三は、頼芸の守護復帰を大義名分にして美濃に攻め入ろうとする近隣諸国を自らの政治力と外交手腕で和睦に導いたために他国の大名にとって頼芸の利用価値はなくなり、没落貴族として諸国を放浪することになる。

妹の嫁ぎ先である南近江の六角氏、続いて常陸・江戸崎城主である実弟・治頼(1502-15557)を頼る。ここで治頼に土岐氏家系図と家宝を譲渡している。土岐氏宗家を弟に任せることに対して、頼芸はプライドが邪魔するような人物ではなかったであろう。悩んだ末というより、治頼が受け取ってくれて一安心、重荷から解放された心境だったのではないだろうか。

さらに上総夷隅の同族・土岐為頼(?-1583)を頼り、その後甲斐の武田氏に辿り着く。

最期は旧臣でここまで西美濃の領地を守り抜いた稲葉一鉄(1515-1589)が保護して、揖斐・岐礼の地で81年の生涯を閉じた。

美濃守護になって6年で追放され、40年間でこれだけの土地を渡り歩き流遇の生活を続けたこの人生も実に見事であったというほかない。放浪機関と移動距離No.1大名かもしれない。気が向いたら他にどんな没落人生を送った大名がいるか調べてみよう(あまりモチベーションが上がらないが…)。

しかしよく考えると戦乱の時代に生を受けた男子でありながら奇遇先で戦に参加するとか、形式的でも一軍の大将を任されてもいいものだが、武勇めかしいことは何一つしないどころか、天下の情勢や政治・軍事に全く無関心であった為に、亡命先の他家はもちろんのこと一族からも次第に疎まれて所在を転々とせざるを得なかったのであろう。

絵を描くことと酒色にふけること以外に関心を持たなかった男の寂しい末路であった。

道三はこの人物に巡り合いあまりにも自分の思い通りになるので、国盗りの事業を加速していったのかもしれない。

最期に行きついた岐礼の地は、後醍醐天皇が隠岐の島に流された時に側近の一人であった大江貞奥(?-1334・大江広元の末裔)がこの地に流され建武元年(1334)に死去した為、後に貞奥卿を祭神として白倉神社が建立された所であった。この大江貞奥なる人物は、頼芸の近習として最後まで付き従い、頼芸の墓石の左に墓のある山本数馬貞正の先祖である。

白倉神社の鳥居。長い参道の先に社がある。

何気なく見学した際、寒村の神社にしては立派な本殿だなと思っていたが、後で調べてみて建武の新政に関わった人物を祭った神社だったことがわかり家に帰ってからも感慨に浸ることが出来た。美濃の山奥で、歴史の奥の深さを知らされた気がする。稲葉一鉄のはからいで留まり終焉の地となったこの場所も、頼芸にとって因縁浅からぬ場所であった。