歴史上人物のお墓参り⑪斎藤道三(岐阜市)後編 | nao7248のブログ

nao7248のブログ

ブログの説明を入力します。

さて道三について。

前編で述べたように常在寺に娘・帰蝶が寄進したと伝わる肖像画があり、これが実にいい。経年劣化による傷みが激しく本堂内に飾られているのは模写であるが、その精悍な顔つきと刺すような鋭い眼差しが見る者を圧倒する。この肖像画が醸し出す雰囲気がまさにマムシに似ているためにこの異名がついたのではないかと想像する。

その事績を簡潔に述べると日蓮宗本山である京都・妙覚寺で法蓮房と呼ばれ、秀才で評判の修行僧であったという。その才覚、欲望、野心を抑えられずに一念発起して油屋山崎屋を起こすが、商人がどれだけ稼いでも当時の権力社会に存在する「座」の制度によって財の多くを徴収され、また独自の商法を編み出し「座」を無視して売上を伸ばすと権力と武力を振りかざす「座」の前にひれ伏すしかなかった。そして非力な商人より、武士になることを模索する。自分の才覚や実力を思いっきり表現するには力を持つこと、強くなることが最重要事項であるということに行きついたわけだ。

 

                         墓碑は右手に広がる豊かな美濃の

常在寺境内にある道三の墓碑    市街地を眺めるように立っている

  

そんな自分の才覚を必要とする大名家として目を付けたのが美濃の国・土岐氏である。美濃の国は前編でも述べたように、斎藤妙椿の時代に守護大名である土岐氏に代わり守護代の斎藤氏が実権を握っていたが、跡を継いだ養子の妙純(?-1497)が近江遠征で討死して統率する大勢力がなくなった為、混沌とした不安定な状況が続いていた。そこに妙覚寺の修行僧時代の友人・南陽房が日運上人として常在寺の住持をしていた縁を使い、美濃守護職・土岐頼武(生没年不詳)の弟・頼芸(よりのり1502-1582)に近侍することになる。

頼芸が好んだ京都の文化的な嗜好を理解し豊富な学識と美的センスで相手を満足させていき、美濃一の美女と言われた頼芸の寵姫・深芳野(生没年不詳)を奪い取る等、自分の言いなりに仕立て上げていく。

その過程で成り上がり者の道三を快く思わない人物には、頼芸に「謀反の企てあり」と讒言して討伐して対抗勢力を滅ぼし、さらに頼芸の兄で守護職の頼武を追放して主君である頼芸を美濃守護に据えた。この一連の活躍により頼芸の信頼を不動のものとする一方自らの勢力を拡大していった結果、最終的に美濃守護代斎藤家を継ぎ斎藤道三を名乗ることとなった。斎藤宗家・斎藤利良(?-1538)が病死した天文7年(1538)のことである。

その後尾張の織田信秀と連携した土岐頼芸を加納口の戦いで破って追放し、天文21年(1552)に美濃を統一した。ここに道三の美濃国盗りが成就したのだ。

道三は権謀術数を駆使して主家を滅ばし下剋上を果たした悪党、戦国三梟雄の一人などと呼ばれ必ずしも世間一般に対して良いイメージではないが、有名無実な権力にしがみつくムシケラどもを排除して新しい世の中を作ろうとする革命家には賛否両論は付いて回るものであって、特に道三のように時代の変革者第一号のような人物にとって悪のイメージは避けて通れないことなのかもしれない。

前述した「座」に代表されるように、この時代はあらゆる商品に幕府や公家または寺社に販売する上でお墨付きが必要で、要するに上納金を払わなければ商売もさせてもらえない社会であった。それを変える為に旧勢力を排し、己の理想とする国家を運営するために国盗りを実行した英雄でもある。

しかしその理想を全国に広げるには、彼の人生は短すぎた。というより、その野望があまりにも大き過ぎた為に彼の才覚と実行力をもってしても時間が足りなかったようだ。その理想は皮肉にも娘婿で、長年の宿敵であった隣国の尾張・織田信長に引き継がれた。

正徳寺で信長に会見した後に「我が子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐだろう」と語ったことが後に現実になったのである。

最後は、家督を譲った嫡男・義龍(1527-1561)との決戦に敗れ、出世街道をひた走る過程で何度となく渡ったであろう長良川の河畔で戦死した。

 

道三戦死の地、道三塚。住宅街にひっそりと佇む。道三に哀悼の意を表して合掌。

彼の奮戦を想像し、その潔い最後に思いを巡らせ、感動した。

嫡男・義龍は、道三が「おいぼれ」と罵ったと言われるほど嫌われていたようであるが、実際は合戦における兵の進退、領国経営において大いに資質を持っていたようである。若かりし頃の冴えわたる頭脳は衰えてしまったのか、実力のある者ほど身内に対して厳しい目で見てしまうからなのか、晩年の道三には義龍の実力を見抜けなかった。

戦国三梟雄の一人松永久秀(1510?-1577)が足利義昭(1537-1597)の誘いに乗って信長から寝返り信長包囲網を形成したが、奈良信貴山城に籠る久秀は真っ先に討伐の対象となり大軍の前に自慢の茶器と信貴山城と共に散った。この後、宿敵であった大和の豪族・筒井順慶が信長から正式に大和守護を任命され、信長配下とはいえ悲願であった大和の統一を果たす。所詮は無力な足利将軍とその後ろ盾である保守的な毛利家が積極的に戦をしないことを晩年の久秀は見抜けなかった。

これまでの人生を顧みた時に彼らの頭には何がよぎったのか、最後にもう一度自分の野望を賭けたくなったのか、その経験に裏打ちされた自信がそうさせたのか、その心理に思いを馳せることが出来たいい場所であった。