歴史上人物のお墓参り⑪斎藤道三(岐阜市)前編 | nao7248のブログ

nao7248のブログ

ブログの説明を入力します。

私が歴史(特に戦国時代)に興味を持つきっかけとなった高名な司馬遼太郎著「国盗り物語」で、織田信長と共に主役を務める斎藤道三(1494-1556)のお墓に行ってきた。

斎藤道三と言えば下剋上の代名詞であり戦国三梟雄の一人として美濃のマムシの異名を持つほどの極悪非道で目的のためには手段を選ばない冷酷な人物として著名である。しかし別の一面として高い知識と教養を身に付け、武道(特に槍術)にも秀でた多才で魅力溢れる人物だった、という意見もある。この謎の多い人物の実像に迫りたいという思いから、足跡を辿ることにした。

お墓のある常在寺の門前

道三は出生・生い立ちに関する資料が少なく、その伝説的な事績のせいもあって実在を疑いたくなるほどに謎の多い人物であるが、この常在寺がその生存を確実なものにしている。

何といっても同寺所蔵で国の重要文化財に指定されている道三・義龍父子の肖像画は一見の価値あり。道三肖像画は眼光から気迫が伝わってくる迫力があり、娘・帰蝶の寄贈と伝わる。また嫡男・龍興が寄贈したと伝わる義龍の肖像も道三が疎ましく思ったという巨漢で怪異な風貌を見事に表しおり、これもその気迫を今に伝えている。本堂内に肖像画の複製品が父子並んで展示されており、これが忠実且つ精巧に出来ている為により人物像が鮮明に浮かび上がってきて感動する。さらに道三、義龍、龍興まで三代の位牌を拝むことが出来て本堂内にいると故人を身近に感じ頭の中で戦国時代にタイムスリップさせてくれる。

この常在寺は道三にとって最重要拠点と言える場所である。道三は明応3年(1494)に京都郊外西岡の地で生まれたとされ、青年期に日蓮宗の本山・京都の妙覚寺で法蓮房と呼ばれる修行僧であった。この修行僧時代から秀才の誉れが高く、同僚の南陽房が日運上人として故郷の同宗派常在寺で住職を勤めていた縁を使って美濃の地に赴き、すべてはここから始まるのである。道三にとって常在寺は、美濃の国盗りにおけるベース基地であったのだ。

 

門をくぐるとすぐ目の前に本堂が現れる。敷地は広くない。

 

本堂に繋がる開運堂。斎藤道三の国盗りと合わせて出世した経歴にあやかった建物か、詳しくはわからないがその名は実に縁起がいい。

 

さてこの常在寺、創建は宝徳二年(1450)で美濃守護代・斎藤妙椿(1411-1480)が日蓮宗に帰依しており自分自身の菩提の為に京都本山妙覚寺から日範上人を迎えて開山した。

この斎藤妙椿が美濃の歴史に与えた影響と道三との関係を考えると非常に興味深い因縁を感じるので、少しこの人物について触れてみたい。

次男であった為、常在寺から西に十里(40km)離れた現在の八百津町にある善恵寺に幼少時に出家した。修業を積み、その後子院・持是院を構えた。

現在の善恵寺(持是院は残っていない)

参道から境内へと続く通路には石臼が整然と並べている。

境内は静かな佇まいでそれほど広くないが、高台にあり眼下に木曽川、更に対岸の町と山を遠望できる。

ここで妙椿は50歳まで過ごしたが、長禄四年(1460)に兄・利永が亡くなりその子で甥の利藤(?-1498)を後見するために加納城(岐阜市)に移り、同じ持是院と名付けた居庵を建てた。

父・斎藤宗円(1389-1450)の時代、美濃の国は既に守護職である土岐氏は無力化しており守護代が実質支配する状況下にあった。宗円は同じ守護代富島氏との抗争に明け暮れた生涯を過ごし、その念願は前出の長男・利永に受け継がれ宝徳二年(1450)に富島氏・長江氏を討ち果たし、名実ともに美濃の守護代筆頭として実権を握った。

利永は守護職・土岐持益(1406-1474)の後継者を、持益本人が推す孫の亀寿丸ではなく自らの意見で一色氏から土岐成頼(1442-1497)を養子に迎え入れ、自分の娘をその室に輿入れさせた。すでに守護職である持益は後継者すら自らの意思で決められない状況であった。

父・宗円、兄・利永が築き上げた守護代として美濃一国を統治する権力を最大限に行使して、妙椿は軍事・外交と精力的に活動しその影響力は近江、越前、飛騨、伊勢、尾張の近隣諸国に波及した。政治面においては幕府直臣になるべく活動した結果、幕府奉公衆となり官位も主家である土岐成頼を超える従三位権大僧都まで昇った。こうした行動から見えるその野心は形骸化した主家を完全にないがしろにしており、成頼を追放していないだけましではあるが、後の道三と同じことをやったと言えるのではないか。

応仁元年(1467)に発生した応仁の乱では成頼を上洛させ山名宗全(1404-1473)を首魁とする西軍に属し、妙椿自身は美濃に残り攻めてきた近江勢を駆逐し美濃国内を平定した。

文明9年(1477)には西軍不利の状況下で足利義視(1439-1491)、義材(後の義稙1466-1523)父子を美濃に亡命させている。

美濃一国を完全に掌握しその支配領域を中央に広げようとしたが文明十一年(1479)に幼少期を過ごした可児郡明智に隠居し一年後の文明十二年(1480)、自らが建立した瑞龍寺に葬られた。一条兼良や宗祇、東常縁ら当代一流の文化人とも交流しており、野心、行動力、教養、経済力を兼ね備えた戦国初期における英雄の一人に数えられていいのではないだろうか。

彼の死後、養子にした甥で利藤の弟・利国(後の妙純?-1497)が利藤と兄弟間で争い始める。あまり知られていないが斎藤妙椿こそ、後に単身で美濃の国取りを成し遂げる道三の活動の模範となった人物であり、また美濃が混乱する元となる要因を作った人物でもあったのだ。

瑞龍寺内の子院・開善院の門とその脇に立つ紙本著色斎藤妙椿像の案内板及び説明書き

瑞龍寺は斎藤妙椿により応仁二年(1468)に創建、臨済宗妙心寺派の座禅修業を行っている寺院で立入が制限されているため、境内を拝観することも寺院奥にある土岐成頼と斎藤妙椿墓所を見学することも出来なかった。残念ではあるが、現在でも修業道場としての慣習を継承しておりピンと張り詰めたような空気感が漂う周辺の雰囲気が何とも心地良かった。