歴史上人物のお墓参り⑨氏家卜全(岐阜・海津) | nao7248のブログ

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応仁の乱(1467-1477)以降機能しなくなった足利幕府を再興する名目で天下布武を掲げ、

統一政権を確立するために動き出した織田信長であったが、旧秩序を打ち破り各地の抵抗勢力を抑え支配していくことは容易なことではなかった。特に信長を苦しめたのは浄土真宗・本願寺教団とその僧侶によって組織された民衆による一向一揆だった。

足利幕府が脆弱な政権であったことが在地領主や国衆・国人による自治を進めることとなり、各地方独自の風土を作り上げることになった。

そんな時代背景にあって摂津大阪、伊勢長島、三河など大河川を有する平野では米の生産量が増大して人々の生活が豊かになり、急激に民衆の経済力が増大していった。経済的なゆとりは民衆の意識を自立へと動かし、思考の基盤となる宗教へと民衆の興味が移っていった。そこに浄土真宗が浸透していき次第に過激化していったと考えられる。

特に一向宗徒が守護大名・富樫政親(1455-1488)を滅ぼすほどの力を持った加賀国では、その後織田政権の北陸方面司令官である柴田勝家(1522-1583)が天正4年(1576)に制圧するまで90年間独立自治を行っていたのだ。

また永禄6年(1563)には三河一向一揆が起こり、三河統一を目指す若き日の徳川家康を苦しめた。家康の家臣には、主君である家康より一向宗を選び一揆に参加する者もいたほどである。三河に住する我が家も御多分に漏れず浄土真宗の信徒であり、少しはこの宗教を理解すべきと思うし当時の民衆の思考も知りたいと思っている。

一向一揆について考えたいと思ったのは、氏家卜全(1512-1571)のお墓参りしたことがきっかけであった。

この卜全塚は木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の西端に位置する揖斐川の川岸から数百メートルの位置にあり、東側は養老山地が屏風のように横たわる。

中央やや左にポツンと建つ石碑が卜全塚である。稲刈り後の水田に水たまりが出来ている。

元亀2年(1571)に織田信長は長島の一揆勢力を一掃するために柴田勝家を指揮官として西美濃三人衆を従えた征伐軍を向かわせたが、一揆勢はこの地形を生かした迎撃軍を配置し勝家軍を撃退することに成功する。この戦闘で指揮官である勝家が負傷した為、代わって殿を引き受けた卜全は一揆勢の勢いを止めることが出来ず長島の輪中地帯から10数km、低湿地帯が続くこの地で泥沼に馬が足を取られ進退の自由を失い討死した。

養老鉄道養老線の線路脇、水田の一角にひっそりと佇む石碑。

見事なほどに何もなく訪れる人も少ないと思われるこの場所だからこそ一揆勢の罠にはまり退却した柴田軍と討死した卜全の状況を多少なりとも理解出来た気がして、思わず石碑に向かいお礼の言葉を口にした。

氏家卜全は前述した西美濃三人衆のうちの一人で稲葉一徹、安藤守就と西濃地方を治めた人物である。現在の大垣市北部が稲葉氏の領地、滋賀県との県境辺りまでの西部一帯が安藤氏、大垣市南部一帯が氏家氏の領地で、卜全最後の地となった海津市南濃町は氏家氏との長島一向一揆の領地が接する国境地帯であった。

木下藤吉郎(1537-1598)が織田家に仕官して最初の大仕事が世に知られた墨俣の一夜城であるが、美濃を攻略する為に墨俣城を起点として西美濃三人衆を織田家に臣従させることが次の狙いであった。そこで藤吉郎は竹中半兵衛(1544-1579)に目をつけ、この人物を家臣にすることに成功する。竹中半兵衛が安藤守就の娘を妻にしていた関係で、また他の2氏も安藤氏と縁戚関係があり一蓮托生の状態であった為そろって信長に臣従することになった。その後織田家の戦闘に参加し領土拡大に貢献するが、この3家のその後はそれぞれ別の道を辿ることになりとても興味深い。機会があれば触れていきたい部分である。

氏家氏は卜全亡き後、嫡男・直昌(?-1583)が家督を継いだが天正11年(1583)に病死した為次男の行広(1546-1615)が継承した。父親の卜全は討死に関するエピソード以外に残された情報がなく、三人衆の他二人のキャラが濃すぎて影が薄かったのか、その人物像に迫ることは難しい。しかしこの行広があくの強い西美濃三人衆の一角を担うのに十分な資質を持っており、情報が集まったらその人物像に迫りたいと思っている。