歴史上人物のお墓参り⑧今川義元(後編) | nao7248のブログ

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今川義元におけるもう一つの謎として、永禄三年(1560)5月12日に駿府を出発した西進・行軍行動を考えたい。先にも述べたが私は織田信長の歴史漫画を読んだことがきっかけで日本の歴史に興味を持ったが、その頃から漫画も小説も一貫して「京に旗を立てて、足利家に代わって天下を治る」ことが義元の西進の目的とされている。しかしそれを裏付ける手紙等の文献は残っておらず、京に至る道程に存在する地場勢力に対して味方に引き入れる為の政治工作や調略の動きを確認出来ない為、ここに至る経緯と状況から義元の真意に迫りたい。

背景として天文23年(1554)の甲相駿三国同盟の締結が大きな要因となったであろう。この同盟によって今川家は北と東の脅威から解放された。南は駿河湾であり、領土拡大する為に西方に向かうのは自然の流れであったと考える。

父・氏親の代に遠州を平定した義元は、西隣する三河の攻略を画策する。三河は松平家当主の相次ぐ非業の死により今川家に従属しなければ立ち行かない状況であった為、松平元康を人質として難なく支配下に置くことに成功する。今川家にとって三河の地は、吉良家から分家した先祖の発祥の地でもあった。

そのお隣尾張は今川家と常に臨戦態勢であった織田家との国境で、先代・信秀の代までは盛んに三河に侵攻していたが、天文20年(1551)に信秀が42才で急死した後家督争いが起こり混乱の様相を呈していた。この家督争いを制したのは「尾張の大うつけ」と悪評高い信長である。

今川家の最前線に送り込まれた家中最強の武将・岡部元信(?-1581)は尾張の喉元である鳴海城(名古屋市緑区)まで侵攻し、近隣の土豪たちを懐柔して基盤を築きつつあった。今まで一進一退の攻防を繰り返してきた状況を打破する千歳一遇のチャンスが訪れたのだ。

人質として駿府で育った松平元康は18歳になり、先鋒として一帯を率いるまでに成長した。これらの諸条件が揃い、最盛期を迎えた今川家は3万とも4万とも言われる大軍団を西に向けて進発させることになったのだ。

京都までの道のりを考えて出発したわけではなかったかもしれないが、永禄3年の時点では少なく見積もっても2万5千の軍団に対抗しうる勢力は無い。まずは尾張を今川の領土として平定し、余力を駆って伊勢か美濃になだれ込むといった、そんなざっくりした構想は描いていたのかもしれない。当時の各大名の版図・勢力図と今川家の戦力を比較して判断すれば、京都まで一気に行軍して制圧することも十分に可能な状態にあったと言える。現に織田信長は桶狭間で今川義元を討った後の永禄11年(1568)に上洛を開始すると南近江の六角氏、京都を制圧していた三好氏はあっけなく退散している。

結論として、戦略としての最優先事項は尾張への侵攻と平定、その後の状況次第で京都まで一気に抜く構想であったと思われる。結果はどうであれ、そこまでの状況を作り上洛の段取りをして大軍団をもって征西を実行した今川義元公に敬意と追悼の意を捧げたい。

 

桶狭間古戦場公園に立つ義元供養の石碑。近隣の住民が建てたものだという。

桶狭間の戦い450年を記念して造立された今川義元公銅像

義元は胴長短足で馬にも乗れないといった批評がされているが、残念ながら義元の肖像画は残っていない為に真偽は定かではない。嫡子・氏真の肖像画から想像すると、丸顔でずんぐりした感じであったことを想像させる。肖像画を残していないのは、この征西軍において討死するとは予想していなかったからであろう。勝手な想像であるが、上洛した後に京都の高名な絵師に書かせようと考えたかもしれない。

桶狭間にある高徳院・今川義元の本陣跡がある。

高徳院の入り口右脇の竹藪にある義元仏式の墓。江戸時代に尾張藩士が建立した。

戦死場所とされる所にある義元公の墓。木陰になっていてわかりにくいが奥に墓石がある。

明治に入り旧尾張藩士によって建立された。

 

西尾市・東向寺 ここに義元の首塚がある。

義元公の首塚 

桶狭間の戦いのエピソードとして私が最も好きなくだりが、義元討死後の岡部元信の行動である。先に述べたが、元信は今川軍の最前線である鳴海城で義元本軍の到着を待っていた。しかし義元は信長の電光石火の奇襲にあえなく討死してしまい、統率を失った今川軍は散り々々になって逃走し崩壊した。そんな大混乱の圧倒的不利な状況下で最前線にいながら籠城し徹底抗戦を続け、主君・義元の首と引き換えに開城することを申し入れた。この武勇と忠義に感動した信長は丁重に首を送り届けさせ、元信はゆうゆうと鳴海城を引き払ったという。さらに帰り道、自軍100余名で刈谷城の水野信近を打ち取り城を焼き払うという豪勇さを見せつけている。やられた側の刈谷城主・水野氏はどんな心境であったか。我が地元ゆえに残念である。

その後首の腐食が進み駿府までは輸送出来ないと判断した元信は、今川家と所縁のあった三河・西尾の東向寺に供養を頼み、駿河へと帰還した。

その後も元信は今川家に忠節を尽くし、今川家滅亡後は新たに駿河を治めることになった武田家に仕えた。武田家においても無類の武勇を見せ、その最後まで徳川家康に抵抗し続け信念を貫いた。いつか、この武将の足跡を辿ってみたいと思ている。

今川軍の戦死者であろうか、義元公首塚の前にいくつかの墓石が立つ。