歴史上人物のお墓参り⑦松平信康(岡崎) | nao7248のブログ

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祖父・松平広忠(1526-1549)の通称・岡崎三郎を継承した家康の嫡男・松平信康は浜松城の北に位置する二俣城で天正7年(1579)9月15日切腹し20年の短い生涯を閉じた。介錯役の家臣・服部正成(1542-1596)は主人に刃を振り下ろすことが出来ず、検死役が代わりに介錯することになったというエピソードは有名である。うろたえる正成に対して腹に刃を突き入れつつ冷静に優しく言葉をかける信康に、正成は涙が止まらなくなり突っ伏してしまう…という場面を想像するのはドラマの見過ぎであろうか。

信長は首実検の後、丁重に故地・岡崎に送り届けるよう指示したという。首は信康が城主であった岡崎城郊外の若宮八幡宮に葬られた。社殿脇に門と塀で厳重に囲われた首塚がある。


若宮八幡宮(岡崎市鳥川町)


社殿の脇ある岡崎三郎公首塚

中の様子

父・家康は今川家から独立後の永禄9年(1566)に松平元康から徳川家康に改名しており徳川信康を名乗っていたはずであるが、江戸幕府成立後に徳川姓は将軍家と御三家のみに限るということになった為、信康は死後になって「松平信康」と呼ばれることになった。後世の子孫が決めたことで当人には知る由もないが、死して尚優遇されず、といった印象が残る。

しかし信康死後に家康が残したいくつかのエピソードに父の愛情を知ることが出来、温かい気持ちになれるのが実にいい。

前回少し触れたが、武田家内通の嫌疑により信長に真偽を問われた際、呼び出された宿老・酒井忠次は命を懸けて弁明するどころか、これを真実であると容認した。しかし家康は徳川家の宿老でその功績は甚大である忠次の行動を責めることは出来なかった。

後年、領地替えで家康が関東に移り家臣団に領地を与えた時に、忠次はすでに隠居しており家督を継いだ嫡男・家次(1564-1618)は下総国臼井3万7千石であった。これに対して松平家時代からの最古参である忠次は家康に対しても遠慮の無い言い回しで親子2代の忠節・功績に対して少ないのではないかと抗議したようであるが、家康は忠次に対して「お前も子がかわいいか」と一言つぶやいたという。

積年の恨み節が言わせた一言であったろう。これ以上忠次は何も言わなくなった。いや、言えなくなったのだろう。

また時は過ぎ慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原合戦に陣を進める家康はこの時58歳、嫡男と定めた3男・秀忠(1579-1632)は中山道から関ヶ原に来るはずであるのに到着せぬまま開戦が近づいている。

この時ふと、「信康が生きておればこの雨中に老体に鞭打って進軍せずともよかったであろうに」と、つぶやいたという。9月15日早朝に始まった戦は徳川軍の大勝利に終わり、決着が着いた後また雨が降ったという。信康の21回目の命日であった。

岡崎城の西、天然の外堀になっている矢作川を渡るとすぐ右手にある勝蓮寺

唯一となる信康の画像を所蔵している。他にも信康ゆかりの遺品が多数あり、生前に行き来があったことをうかがわせる。

矢作橋を西に渡った橋の袂にある秀吉と蜂須賀子六出会いの象

秀吉は天文19年~23年(1550-1554)ごろに遠江に行き、また尾張に戻っている。

信康が生まれる前の出来事。この少し先に勝蓮寺がある。