歴史上人物のお墓参り⑦松平信康(浜松) | nao7248のブログ

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歴史好きというのは、人物、事跡、建造物、その後の影響等、あらゆる方面・分野に関連した調査が必要で、興味を持つポイントも多岐に亘る。

私が最初に興味を持ったのが城郭である。戦国時代には戦闘用の要塞として、また地域を支配する権威のシンボルとして、またあるときは行政府としての役割を担ってきた為、機能的でシンプルに出来ている。

その中でも特に戦闘用の城、戦国時代初期に多く存在した山城に強い魅力を感じる。

地域を一望できる立地条件、敵に対する防御、長期戦に耐えうるライフラインの確保等、その人物の英知を懸けた傑作のように思えること、人間の生命力に溢れた息吹を感じられることがその理由である。

前回の備中松山城がその最たる例ではあるが、重複することも多いのでここでは触れずにおく。

その結果、山城好きが高じて山登りをするようになり、週末になると自宅から車で2時間以内で行ける山(といっても標高1000m前後ではあるが)を登ることが多くなった。

今回、地図を見て登りたい山を物色していると浜松の北、天竜地区に秋葉山(866m)が目に止まりいざ出発、秋葉神社の下社が山の麓にあり、山頂にある上社の社殿を目指す登山ルートである。古くから秋葉山信仰の参拝道であった為、登山道は整備されておりひんやりした山中を延々歩くと歴史の中にいる自分を感じられて非常に清々しい。

山頂に着くと近代的な鉄筋コンクリート造りの豪華な社殿が現れ、昔の巡礼者の気分に浸ってきた心地良さは台無しになったが、眼下に浜松市街を遠望出来る景色に満足して下山した。

秋葉神社上社に興をそがれたのは残念であったがもう一つの目的に向かって心は逸る。

山を下りた帰り道の途中に二俣城跡がある。この城は天竜川と二俣川の合流点に徳川家康が築いた城で徳川氏が今川氏、今川氏滅亡後は武田氏と攻防を繰り広げた場所である。

その城跡にほど近い場所に清瀧寺という小さな寺があり、この寺に葬られた松平信康公の霊廟をお参りすることがその目的である。単にお墓と言わず霊廟とした所に故人を偲び弔った人たちの信康公への悲しみと畏敬の念が伝わる。


清瀧寺参道と俳人・宝井其角句碑

松平信康(1559-1579)、徳川家康の嫡男として将来を嘱望されるが弱冠二十歳で自害させられることになる悲運を背負った数奇な人生を送る人物である。その出生からめまぐるしく変転する政治情勢に翻弄されることになる。

今川家の人質であった父家康(当時は松平元康)が今川義元上洛の先陣として出征する前の年、永禄二年(15559)に駿府で生まれる。母親は今川家一門の関口親永の娘・築山殿で、今川家の権威をかざし得意の絶頂であったと思われる。しかし翌永禄三年(1560)5月19日に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、松平家の状況は一変する。

後継者である今川氏真(1538-1615)は父義元亡き後混乱する今川家を収拾出来ず、この合戦後岡崎城に入り独立した家康は織田信長と同盟して今川家を完全に見限った。この合戦で今川家臣・鵜殿氏長・氏次を捕虜とした家康は駿府にいる築山殿と竹千代(後の信康)を捕虜二人との人質交換で岡崎に取り戻すことに成功した。

桶狭間の合戦は織田家が窮地から脱したこととその後信長の力量によって天下統一に進む第一歩となったことは周知のことであるが、地味な所でこの戦で最も得をしたのは家康であったかもしれない。

追いすがる織田勢を決死の覚悟で岡崎・大樹寺にて撃退し、戦後の困難極まる情勢を抜け目無く潜り抜けたことは、後世の大戦略家徳川家康の片鱗を見ることが出来る。そしてこの危機を自らの飛躍に変えたのであった。

しかしこの家康の飛躍の第一歩は、今川家の権威をもって君臨していた正妻の築山殿にとっては没落の始まりとなった。徳川家における絶対的支配者であった今川家が滅び、変わって徳川家に強く影響を及ぼすことになったのは織田家であった。攻守同盟を結んだ関係ではあるが、あくまで織田家が桶狭間で今川義元を討ったことが徳川家を世に出したという既成事実が、自然に徳川家を織田家の下風に立たせることになった。というより、まだ徳川家の本拠地である三河一国の統一もままならない家康にとっては、織田家に逆らえば滅ばされかねない立場であったのだ。

清州同盟と言われるこの同盟の5年後、永禄十年(1567)5月に信長の娘・徳姫と信康の結婚が決まる。お互い永禄二年(1559)生まれ、9歳同士の婚約であった。

この政略結婚によって岡崎に輿入れしてきた徳姫と織田家侍女団は、自然に実家の権威をもって築山殿を筆頭とする旧今川家侍女団に対することとなる。決して大きくない岡崎城内で嫁・姑が同居するのである。ましてや圧倒的な権威を持った今川家で育った築山殿にしてみれば、日々鬱憤が溜まって行ったことは想像に難くない。もともと桶狭間の合戦後鵜殿長照の二人の遺児との人質交換で岡崎に移住してきた彼女に、家康の母・於大の方は岡崎城に入ることを許さず城外・築山に幽閉状態であったことがその名の由来である。彼女の立場を思うと、悲しい運命を背負った女性と言える。

その後徳姫は信康の子を二人出産するが二人とも女児であったことから、築山殿は旧武田家家臣・日向時昌の娘を信康側室に世話するというおせっかいをしてしまう。

一族繁栄の為に一人でも多くの男子を産むことは戦国の世における武家にとっては必須条件であり、築山殿のとった行動は決して非難されることではない。しかし信康が徳姫の閨に向かわぬように仕向けたかのように武田家旧臣の娘を側室に起用したことで、家中で武田家との内通を噂されることになる。

徳姫は築山殿が武田家と内通しているというこの噂を実家の父・信長に手紙で密告したことで信長から築山殿・信康の死罪が告げられる。

この事件の真偽を知る由もないが、築山殿はプライドが異常に高くヒステリックであるという性格上の難点以外は、戦国時代の女性の立場で他家と内通するような政治工作を思いつくとは考えにくい。また、徳姫にしても単に姑が信康を溺愛するあまり、父に愚痴をこぼす程度に噂話を伝えたに過ぎないであろう。

信康に至っては寝床に女性が来たから抱いたという程度で、徳姫を遠ざけたつもりも過剰に築山殿に肩入れすることもなかったはずである。

ただ考えられるのは、信長に呼び出され弁明する機会を与えられた徳川家家老・酒井忠次(1527-1596)が命を懸けて釈明しなかった点にあると考える。

信康の非を上げるとすれば、彼は生まれながらにして徳川家の嫡男であり松平家の古くから仕える老臣たちの諫言を聞かず疎ましく思っていた形跡があり、彼ら老臣にしてみれば家康の次の世代になったら自分の身がどうなるかわからない、という危機感を持たせたという見方が出来る。

また武田勝頼との戦で殿を務め、軍を見事に進退させ無事に退却させたという武勇と器量を信長が恐れ、不甲斐ない自分の息子たちの時代になった時に害となる者を排除したとも言われている。

信康切腹について家康は、この信長の非情極まる裁定に対して3日間部屋に閉じこもって悩みぬいたといわれており、一部でささやかれている武田信玄と嫡子義信のような親子の対立から家康が信康を死罪に追い込んだという説に関しては私はないと考えている。徳川家の状況は有能な武将を一人でも多く欲しており、次男結城秀康が5歳、三男秀忠は生後5か月のこの時点で信康を殺して得をするとは考えにくい。

今回、清瀧寺にある信康公霊廟を見て、遺族の追悼の意を感じられる墓所であったことでこのことを確信することが出来た。またこの清瀧寺そのものが信康を弔うために建立された寺であることを考えると、答えは明白である。


信康公霊廟・漆喰塀と赤門で厳重に仕切られている。


区画内には当時の二俣城主大久保忠世と殉死者吉良初之丞、三方原合戦戦死者2名の墓石がある。

通路に沿って歴代住職の墓が並ぶ

清瀧寺の他にも信康の墓がある。それは次回に報告することにする。