歴史上人物のお墓参り⑧今川義元 | nao7248のブログ

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駿河を本拠とする今川氏は義元の時代に本国駿河から三河全域を手中にし尾張大高・鳴海城まで支配下に置く勢いを見せたが、永禄3年(1560)5月19日尾張桶狭間で織田信長軍にあえなく討死した。その後信長の首実検を終えた首は紆余曲折を経て三河西尾・東向寺に、胴は三河豊川・大聖寺に葬られた。

我が町の近くで起こった戦国時代の勢力図を一夜にして塗り替えたと言われるほどの大事件についてはいろんな点で長い間気になっていたので、今回は今川義元について考えたいと思う。気になっていたことは二つ。

一つは、義元は人物として凡庸なのか、秀でた部分はあるのか。あるとすればどこか、ということ。世間一般には胴長・短足でお歯黒をつけて都かぶれした武家貴族というイメージが定着しているが一方では「海道一の弓取り」と呼ばれていたという。

二つ目は、私が子供のころに歴史に興味を持つきっかけとなった桶狭間の合戦に向かうことになる西上の動機である。そのころ読んだ歴史漫画やその後に読んだ歴史小説はすべて義元は京都に旗を立て天下に号令する為に上洛することが目的であったように書かれており、このことを信じて疑わなかったが最近この見方が変わってきているからだ。これはじっくり検証・検討してみたい。

まず一つ目の人物像について考えてみよう。

今川義元は永正16年(1519)に今川氏親の五男として駿河に生まれる。義元の生涯に大きく関わる隣国の相模・北条氏康が永正12年(1515)の4歳上、甲斐・武田晴信が大永元年(1521)の2歳下になる。

前述したとおり義元は父・氏親の五男であった為駿河・善得寺(後の臨済寺)に預けられ、今川家重臣の家出身の僧・太原雪斎(1496-1555)の元で教育を受けることになる。

 

静岡市葵区の臨済寺山門。静寂の中に威厳を漂わせる佇まい。

 

山門をくぐり階段を上ると国重要文化財の大方丈が姿を現す。17世紀前期の建立。

大方丈というだけあってかなりの迫力。丁度掃除中だったのか縁側には大きな木魚が。

ここで教育係の太原雪斎と共に学識を深め、後に京都五山で学ぶことになる。

その後父・氏親の後を継いだ長兄・氏輝(1513-1536)が24歳で急死し、奇しくも同じ日に次兄・彦五郎も死去した。謎を残し二人の兄が相次いで死去した為、この二人の兄と母親を同じくする・義元に家督継承権が巡ってくるが、異母兄・玄広恵探(1517-1536)を推挙する反対派と対立することになる。

義元は今川家の家臣団を二分する花倉の乱と呼ばれる家督争いを制し、天文6年(1537)から領国の経営に乗り出す。義元18歳の時のことである。

すぐに甲斐の武田信虎の娘(定恵院・信玄の姉)を正室に迎え甲駿同盟を締結、これに怒った北条氏の駿河東部侵攻を許し伊豆地方が占領される。しかし北条家の背後に当たる山之内上杉憲政(1523-1579)と同盟を結び挟み撃ちにして北条氏康から伊豆の返還を条件に実質勝利の形で和睦した。

また西への勢力拡大行動を強化し三河の松平氏を吸収・併合して、尾張の織田信秀(1510-1551)と衝突、一進一退の状態が続いたが天文20年(1551)信秀の急死により今川勢の攻勢が強まっていく。

天文22年(1553)に亡父・氏親の定めた今川仮名目録に21ヶ条の追加法を加え、今川氏は足利幕府の守護(家臣)としてではなく、自らの実力で領国を統治・経営することを宣言した。

さらに翌年(1554)には嫡男・氏真(1538-1615)と北条氏康の娘(早川殿)を縁組して甲相駿三国同盟が結ばれ、これにより東方の不安を取り除いた。

そして弘治元年(1555)、義元の家督相続に尽力しその後も長年にわたり領国経営、領土拡大に陰に陽に貢献した太原雪斎が享年60で死去した。内政・外交・軍事と、あらゆる面において雪斎が関与していないことはないと言えるほどに多彩で有能な人物であったと思われる。奇しくも越前の朝倉宗滴(1477-1555)の活躍と時代も状況も類似しており、歴史の面白さを感じるところである。これまでの義元の事績はほぼ雪斎が起案し義元名義で実行に移していると考えていいのではないだろうか。

ただし、だからと言って義元がただのお飾りで何の魅力もない人物であったとは思わない。この名軍師が心血を注いで育て上げた作品である義元はその期待に応えうる人物であったと考えるべきだし、家督を継いでからも慢心することなく雪斎との二人三脚を続けた思考・判断はただならぬ人格を匂わせている。

しかし合戦経験はほとんどなく、軍事面においてはクエスチョンマークを付けざるを得ない。海道一の弓取りというより、得意分野は禅僧として学んだ学識を生かした文書発給、外交を軸にした政略・戦略術に長けていたと考えるほうが合っているのではないだろうか。この面はちょうど豊後のキリシタン大名・大友宗麟(1530-1587)に似たものを感じる。

とにかく結果として義元は今川氏の領土を過去最大にまで拡大した。

この時代、後の北条氏や毛利氏のように領土が拡大し続けることに限界を感じ現状維持路線に転じるのが末路というか一般的と思うが、義元の領土拡大への野心は衰えを見せず後の西上作戦へと続く。この部分は要検討事項ではあるが、私はその野望と段取り力、行動力を称えたい。長くなったので、二つ目のテーマは次回に。

 

義元公墓所のある豊川市・大聖寺の入口にある門

 

門をくぐるとすぐ左手にある通路を真っ直ぐ行った先に立派な墓石がある。

 

敗戦後の混乱から家臣達が領国の駿河に遺体を運ぼうとしたものの、夏の暑さから腐敗が進みここに埋めたという。目印に寺の手水石を置いたというので、実際に確かめた。

当時の混乱した状況を物語るように、本当に手水石が台座に使われている。その無念と亡き駿河国の当主を偲び合掌。