現実的な問題をクリアーして5月の連休に国宝「閑谷学校」を見る為に岡山県に行き、自分の感想とこの国宝建築に関わる背景を書こうと思った。
学校設立の発案者である岡山藩主・池田光政(1609-1682)の足跡を辿り始めると光政の曾祖父・池田恒興から池田家が繁栄する軌跡を追ってみたくなり、4回目にしてようやく光政を主題にすることが出来ることに喜びと安堵を覚える。
輝政が大改修(建設したと言っていいと思うが)した国宝「姫路城」に次いで、孫の光政も国宝建築を残したことに池田家の建築に対する姿勢とスケール感、目的遂行の為の存在意義と強い意志を感じざるを得ない。
そこで注目すべき点の一つとして、藩主の意思決定がいかに優れていたとしてもこれを実行することが出来るかどうかは家臣団の力量が大いに問われるのではないか、ということである。
池田家創成期の恒興の尾張清州時代から次男輝政の代まで、献身的且つ優れた判断力で支え続けた功臣・伊木忠次(1543-1603)の存在がそれである。司馬遼太郎著「功名が辻」で山内一豊と二人の家老・五藤氏、祖父江氏との二人三脚による成功談が有名であるが、この関係に匹敵する程に池田家に貢献した家老である。ちなみに江戸時代を通して藩政を切り盛りしたとして阿波徳島藩における稲田氏、仙台藩の伊達氏と共に「天下の三大家老」と呼ばれることとなる。
光政の時代には家老は藩の運営を実務レベルで取り仕切る存在になっていた為、藩主の意思を直接実行に移すには有能な代官(現場指揮者)が必要であった。光政は児小姓から才能を見いだした津田永忠(1640-1707)に和意谷池田家墓所に命じる。これは池田家の先祖を一山に集約した墓地で、元々京都・妙心寺護国院にあった墓を備前和意谷敦土山に改装する事業である。この他、領内の治水事業でも功績を遺しその才能を如何なく発揮した後、1670年閑谷学校の建設に着手、1674年に運営を開始した。
光政とは閑谷の地を視察に行ったり、完成後の学校運営に関する相談、時代藩主である長男綱政の教育等、信頼の大きさ、良好な関係を伺うことが出来る。その後藩主家の菩提寺「曹源寺」を造営、1687年に綱政の意向で日本三名園「後楽園」の造営、1700年に完成する。
光政は和意谷池田家墓所と閑谷学校敷地内に墓がある。
津田永忠の墓は、和意谷池田家墓所と曹源寺にある。ここには行けなかったので、次回岡山紀行で訪問したい。
家臣との関係性の良さが一族全体の藩政に関与して繁栄した要因であったと思う。国宝建築を今の日本に残してくれたことに感謝し、歴史に輝く栄光を築いた池田家は一つの幸福の完成形ではないだろうか。