歴史上人物のお墓参り④池田光政公・備前市(3) | nao7248のブログ

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小牧長久手の戦い(1584年5月)で池田恒興と嫡男元助が戦死した。

中入りという無謀な戦略とお粗末な行軍によって相手に動きを察知された末の結末となったが、私の愛読書である司馬遼太郎の新史太閤記で恒興・元助父子の武人としての潔く見事な最後がドラマチックに描かれている。次男輝政も父・兄とともに一部隊を率いており味方の軍が総崩れとなる中勇猛果敢に突撃を試みようとしたが、家臣が父・兄とも既に戦場を離脱したと嘘をついて無理やり退却させた為、生き残ることが出来た。

しかし輝政にとっては、父と兄を失ったこの戦いで退却したことが一生の不覚として深く心に刻まれることになった。この時必死に馬の口取りとして退却させた番藤右衛門という家臣に対して褒めることも加増することもなかったという。(後に利隆の代になって加増された)

そして輝政は池田家の家督を継ぎ、時の権力者から一目置かれる存在となっていく。

秀吉が取り仕切って大徳寺で行った信長の葬儀(1582年10月)では羽柴秀勝(信長の四男で秀吉の養子となる)とともに棺をかついだり、後のこと(1611年3月)になるが二条城での徳川家康と豊臣秀頼の会見には秀頼を先導する役目を加藤清正、浅野幸長とともに務めており、常に政局の中心にいた。

関ヶ原の合戦の前哨戦となる岐阜状攻略戦で福島正則との先鋒争いでは、先陣を切って功名をあげることには味方にも容赦しない強引な正則に対して輝政は木曽川の浅瀬をいち早く見つけて渡り、正則に先行することとなった。同時に川を渡る約束となっていた為正則は激怒して輝政に詰め寄ったが、輝政はあっさり先陣の功を正則に譲ったという逸話が残る。

福島正則のように体一つ槍一本で地位を築き上げた者と父が信長と乳兄弟で本能寺の変後に織田家四家老の一人となった恒興の後継ぎでは、出世欲というか功名への執着心が強くはなかったかもしれない。

しかし輝政は置かれた状況、与えられた環境で常に予想以上の働きをし結果を出す所に最大の魅力と非凡さを感じる。戦闘においては関ヶ原では福島正則との先陣争いに勝ちつつ岐阜城を短期間に攻略した。内政面では小田原征伐後に与えられた三河吉田15万石2000石後に吉田城を築き城下町の基礎を作り上げる。そして関ヶ原合戦後に与えられた播磨姫路52万石では、姫路城の大改修と河川開発事業、それに伴う城下町の建設に功績を遺した。家庭においては、関ヶ原合戦前の政略結婚で家康の次女督姫を娶るり、5男2女の子宝に恵まれる。輝政は既に中川清秀の娘糸姫と結婚し嫡男・利隆を生んでいたが、糸姫と離縁して家康次女の督姫を継室として迎えた。これは黒田長政が蜂須賀正勝の娘・糸姫(奇しくも同名)と離縁して家康養女・栄姫を継室として迎えた例と類似しているが、蜂須賀家がこの一件から黒田家と縁切り状態になったことに対して、池田家と中川家にそういう話は出ていない。

輝政は戦をすれば一流の活躍をし、建築を含めた内政手腕があり、権力者や他家との交流を円滑にする外交手腕、家庭に愛情を持って接していたと想像する。

この人物が持つ万能性、ユーティリティープレイヤーといえる特異性と一本芯のあるゆるぎない自分、信念を持った人物像をその生涯から感じることが出来、それが利隆、光政と続く岡山藩の歴史を作っていく。画像は岐阜県池田町・

池田恒興墓