歴史上人物のお墓参り④池田光政公・備前市(2) | nao7248のブログ

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連休を使って岡山を旅したのは、国宝「閑谷学校」と池田家墓所に行きたいという思いからであった。そこで岡山藩初代藩主で閑谷学校の創立者・池田光政公の生涯を知り、感じたいと思った。

それでタイトルを先走って池田光政公としたが、後悔の念に駆られている。

なぜなら、閑谷学校が出来る以前の池田家が岡山31万5千石を領するまでのプロセスを知ることが光政公の人物・生涯を知る上で必須であり最も近道であることに気付いたからだ。

池田家を世に知らしめた恒興公について前回は考えてみた。今回はさらに池田家を繁栄へと導き西国将軍と呼ばれるほどに飛躍することになった輝政公について考えをまとめていきたい。つまり、タイトルは柳生一族に続き池田一族とするべきであった。

さて輝政公(1565-1613)は父恒興の次男として尾張清洲で生を受ける。信長家臣であった父の元、自然と幼くして信長の小姓として兄と共に仕えることになったと考えられる。前回も書いた通り、父恒興は特別戦上手とか内政に優れているといえるような取り上げるほどのことがない人物であったが、兄元助と共に輝政も見所のある人物であったのではないか、と思われる。

なぜなら秀吉の草履取りの話で有名だが、信長の身辺に仕える者がどれほど大変かを想像すると、秀吉ほどの功名がなくとも追放されずに成人するまで勤めたことだけで十分立派な人物と言えると考えるからだ。もっとも、輝政17歳の1582年に信長は明智光秀に襲撃されて自害するが、ここから、信長の間近で育った輝政の人生が幕を開けることになる。

まず秀吉が備中高松城の戦を終えて、信長の仇討を名目として明智光秀と決戦する為に京都に向かう途中、恒興の領地摂津尼崎を通過する為、ここで秀吉軍に吸収されることになった。恒興の意思がどうであったかは推測するしかないが、明智と羽柴が天下分け目の決戦をする時に勝者に最も近い位置にいたという現実は、恒興の幸運というほかない。

この山崎の合戦で秀吉側に付いたことと元々織田家での筋目の良さから、柴田勝家が提案した清州会議に勝家、秀吉、丹羽長秀に次ぐ4番目の家老として出席することになる。

本能寺の変の前までは織田家の家老と言えば筆頭・柴田勝家、次席・丹羽長秀、三席・明智光秀、四席・羽柴秀吉、五席・滝川一益の五人で、それぞれの地域を攻略する方面軍司令官のような役割を担っていた。恒興はその次の席を蜂谷頼隆、河尻秀隆らと争う程度の存在であったと思われる。

しかし光秀は秀吉に討たれ、滝川は関東を攻略中に本能寺の変が起こり上州に孤軍取り残された為、命からがら尾張に逃げ帰れたような状態で再起には時間がかかる。蜂谷は本能寺の変の時は丹羽長秀と共に信長三男の織田信孝軍に組み込まれ四国征伐の準備中であったが目立った経歴がなく主要人物としては扱われなかった。河尻は甲州征伐が完了した後の領国経営で代官として甲州にいた為、武田家の旧臣に襲撃され死亡した。

このような情勢の中、多分に秀吉の政略に利用された感がなくはないがとにかく4人の家老として清州会議に顔を並べることになったのである。

その後賤ヶ岳の合戦で秀吉が織田家筆頭家老の柴田勝家を倒し完全に織田家の旧領と兵力を手に入れることになり、恒興は美濃大垣13万石を与えられた。

このまま幸運が続くとは思えないと考えたのか、恒興は次の小牧・長久手の戦いで自らの道を切り開こうと動き出す。それは次回に。画像は閑谷学校、国宝の講堂。備前焼の赤瓦が美しい。
国宝・閑谷学校講堂