今の仕事で勤続10年を記念して一人旅を敢行、連休を使って岡山県に行った。
二人の息子は高校、中学で塾や部活で忙しく、妻も仕事があって自分だけの時間が多くなった為に念願だった二泊三日の一人旅が実現の運びとなった。
いい父親だと胸を張って言えるわけではないが、かといってダメ親父でもないとは思っている。自分なりに息子達の将来を思い出来ることはしてきたつもりではある。ここに至り、二人の息子が自分の意志で自分の道を模索し始めたことを微笑ましく思い、親の手を離れつつあることを実感できるようになったことを自分のわがままを通させてもらった言い訳にしたい。
さて、前置きが長くなった。
岡山県、僕の中ではあまり印象のない県である。大げさに言えば兵庫県の次は広島くらいの感じ。岡山の方、ごめんなさい。
そんな岡山に興味を持ったのは、今やライフワークとなったウィキペディアで歴史上人物を検索していた時のこと。
戦国時代の武将や文化人、教養人が好きで特に我が郷土、愛知県にゆかりのある人物には強い関心があり、小牧・長久手の戦いで戦死した池田恒興(勝入斎)を調べたのがきっかけだ。
池田恒興(勝入斎)は織田信長と乳兄弟ということがその経歴を華やかにしている。
父の代に尾張の隣国美濃池田から尾張に移り住んだという。年齢は信長の2歳下(生1536年)で、母親が信長の乳母となった為本当の弟のように幼少のころから付き従っていたと思われる。信長実弟の信行と同い年であり、後に信長は信行と対立し戦をすることを考えると恒興の存在は舎弟のようであったと想像する。
この恒興の信長との近い関係が次男輝政を豊臣、徳川政権での優遇に繋がっていくことになる。
恒興は信長の合戦にほとんど従軍しており武将として最古参の一人であるが、特別戦上手とか事前工作に長けているという事はなさそうで、可もなく不可もないといったところかと思われる。
秀吉の天下統一事業の途中、1584年に織田信雄・徳川家康連合軍と小牧・長久手の合戦が起こったが戦巧者の両者は知力を尽くした戦略合戦となり、両陣営は対峙したままで戦闘はほとんど行われなかった。功を逸った恒興の娘婿で猛将の森長可が家康の小牧山陣営に攻撃を仕掛けるが家康陣営に察知され逆に奇襲を仕掛けられて残にも敗退、その後は元の膠着状態になってしまった。
猛将森長可はこの敗退での汚名を晴らすべく、小牧を飛び越えて家康の本拠で空の岡崎城を奪うことを舅恒興に提言、恒興は婿の長可をいたく気に入っていたと言われており、この提案を受けて総大将の秀吉に先鋒を懇願する。古来、中入りと言われる前線を飛び越えて敵の背後を突く先方は源義経の鵯越えと信長の桶狭間合戦以外に成功例がないと言われるほど危険性が高く、成功している両者の天才性は周知の事実である。秀吉がその無謀さに気付かないわけはないと思うが、やはり信長存命時代にはサルと呼ばれ使いっ走りだった秀吉と信長側近でエリート将校だった恒興の過去の意識がそうさせたのか、この提言を受けてしまう。
結果は武田信玄亡き後野戦において家康には敵うはずもなく大敗を喫し、森長可、池田恒興、長男元助とも戦死となった。しかし秀吉にとっては大戦略の内の小戦術での一失態に過ぎず、その後織田信雄を調略し家康を孤立させ、最後は外交を持って家康を服従させた。
池田家では残された次男輝政が恒興の遺領美濃大垣13万石の家督を継ぎ、その後に起こる関ヶ原合戦での活躍を認められ姫路52万石の太守となった。
この後領地替えがあり、池田家は3代目光政の時(1632年)に岡山31万5千石へ移封され明治まで続くことになる。光政の叔父・忠雄(ただかつ・輝政三男)系統は鳥取32万5千石で明治まで続く。
一族が二系統に分かれて30万石以上を明治まで統治した例は池田家以外にはなく(徳川家は別)、利隆、光政と続く治政とその生涯を紐解きながら感動の岡谷の旅を書いてみようと思う。が、長くなったのでそれは次回にするとして、史跡岡山和意谷・池田家墓所にある池田輝政墓の画像を添付する。