箱根駅伝情報1/1 | NAOのNEWSブログ

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【Playback箱根駅伝】第98回/青学大 史上最速タイムで2年ぶり王座返り咲き!1区、9区、10区で区間新誕生

 

第98回箱根駅伝/3区で先頭に立った青学大の太田蒼生(左)と4区の飯田貴之

2024年に箱根駅伝は第100回大会を迎える。記念すべき100回に向けて、これまでの歴史を改めて振り返る『Playback箱根駅伝』を企画。第1回大会から第99回大会まで、大会の様子を刻んでいく。(所属などは当時のもの) 第98回箱根駅伝総合成績をチェック

第98回(2022年/令和4年) 青学大 往路・復路完全優勝 6位・中大が10年ぶりシード返り咲き

98回大会は、主力を欠きながら全日本大学駅伝で2連覇を達成した前回王者の駒大と、史上初めてエントリー16人全員が10000m28分台という驚異的な選手層を作り上げた青学大の2強対決と予想された。 1区では中大・吉居大和(2年)がハイペースを作り出し、5kmを14分07秒で通過。吉居は5.6kmで集団から抜け出すと、10kmを27分58秒という驚異的なペースで推移し、2007年に東海大・佐藤悠基が樹立した区間記録を15年ぶりに26秒も上回る1時間0分40秒で21.3kmを走破した。 前回覇者の駒大が2位で続き、青学大も僅差の5位と優勝候補は順風な好スタートを切った。 2区では駒大・田澤廉(3年)が首位に浮上。駒大勢では1986年の大八木弘明監督(現・総監督)以来36年ぶりとなる区間賞を手にした。1分02秒差の2位に青学大、その10秒遅れでライモイ・ヴィンセント(4年)が8人抜きを演じた国士大が続いた。前回大会で区間記録を樹立した東京国際大のイェゴン・ヴィンセント(3年)は、レース中に脚を痛めた影響でペースを落とし、区間5位に留まった。 3区では後方から追い上げた東京国際大の丹所健(3年)と青学大の太田蒼生(1年)が先頭の駒大・安原太陽(2年)を逆転し、2人でハイレベルな競り合いを続ける。18.3kmで太田が抜け出し、トップでタスキリレー。12秒差で続いた丹所が日本人歴代最速タイムとなる1時間0分55秒で区間賞を手にした。駒大はこの区間で5位まで転落した。 青学大は4区の飯田貴之(4年)が区間3位と好走してリードを1分37秒に広げると、5区の若林宏樹(1年)も区間3位と安定した走りを披露し、2年ぶり5回目の往路優勝を果たした。 3区で3位まで順位を上げた帝京大は4区で4位と落としたものの、5区で細谷翔馬(4年)が2年連続区間賞の力走で2位までジャンプアップ。往路最高成績を記録した。 往路3位は駒大、4位は國學院と続き、2区終了時点で17位と大きく出遅れた順大が5位とジャンプアップ。なお、5区では東海大の吉田響が区間2位、若林が区間3位、中大の阿部陽樹が区間6位と1年生の活躍が光った。 往路で2分37秒のリードを確保した青学大は、復路で勢いを増す。6区こそ区間8位だったものの、7区の岸本大紀(3年)が区間賞、8区の佐藤一世(2年)が区間2位とこの時点で2位に上がった順大に4分32秒。そこから9区の中村唯翔、10区の中倉啓敦(ともに3年)が連続区間新でライバル校にとどめを刺し、2年ぶり6回目の総合優勝を飾った。 青学大の総合タイムは2年前に自校がマークした大会記録を1分41秒も上回る10時間43分42秒まで更新し、2位に10分51秒もの大差をつけた。 総合2位は順大。6区の牧瀬圭斗、8区の津田将希と2人の4年生が区間トップの走りで2位に浮上すると、最後まで順位を守った。 連覇を狙った駒大が3位、東洋大が4位と続き、東京国際大が過去最高タイの5位、中大が10年ぶりシードとなる6位でフィニッシュした。 一方、上位候補だった東海大、早大、明大がそろって11位、13位、14位とシードを落とす波乱もあった。 大会最優秀選手に贈られる金栗四三杯は、1区の吉居と9区の中村が受賞し、1大会で複数人が受賞するのは2007年の佐藤悠基(東海大)、今井正人(順大)以来2例目だった。

 

 

 

 

 

 

【箱根駅伝】青山学院「下級生からも厳しい言葉があった」 チーム作りの意識改革で2年ぶり王座奪還へ

 

志貴勇斗主将

2024年1月2、3日に第100回大会を迎える箱根駅伝青山学院大学は、2年ぶりの王座奪還へ、志貴勇斗主将(4年)を中心にチームの意識改革を実行しました。 【一覧】第100回箱根駅伝 青山学院大学チームエントリー16選手

■王座奪還へ 伝統を守りつつ取り組んだ新たな改革

原晋監督

青山学院大学の初出場は1943年の第22回大会。2004年に原晋監督が就任すると、2009年の第85回大会に33年ぶりの出場を果たします。その後、2015年に悲願の初優勝をつかむと、以降4連覇を含む6度の栄冠を手にし、黄金期をつくりあげました。 しかし、前回大会は3位に終わった青山学院大。さらにその前回大会では10区間中7区間を4年生が走っていました。優勝が常に求められる青山学院大にとって、4年生の抜けた穴をどう埋めるか。キャプテンの志貴勇斗選手がたどり着いたのはチームの意識改革でした。 原監督が「青山学院の特徴として4年生がきちっとやりきるという特徴がある」と語るように、もともと青山学院大は、毎年4年生が中心となってチームをつくってきました。

しかし2023年は、チームがこれまでとは違う意識を持つため、志貴主将を中心に、学生だけでのミーティングを実施。各々が何をするべきか考え、答えを出す選手主体のチームづくりに取り組み、志貴主将は「4年生だけではなく下級生からもチームに対する厳しい言葉があった。全員でチームをつくるという意識が芽生えてきたのかなと思います」と手応えを感じていました。 その姿を見た原監督も「7人が抜けた穴は冷静に考えればきついでしょう。そのなかで昨年3年生だったものが4年生になり、どうなるかなと心配していたのですが、志貴キャプテンとエースの佐藤一世(4年)を中心にチームがまとまっていますよね」と口にしました。

■意識改革がもたらした結果とその先へ

太田蒼生選手

選手主体のチームづくりは下級生にも大きな影響を与えました。 1年生から箱根を経験している太田蒼生選手(3年)は「駅伝は大会新記録とかいろいろとあると思いますが、それよりも1位になることを僕は欲していて、目標にしている。トラックのタイムよりも勝負で勝つというところを意識しています」と個人の記録よりもチームの勝利を目指します。

また、黒田朝日選手(2年)も下級生ながら「去年は強かった4年生がチームをまとめて引っ張ってという形だったのに対して、"必ずしも上級生が"というよりは各学年の主力といわれるような選手がチームを引っ張っていかなければならないなというのは感じています」とチームの変化を実感している様子。 4年生中心という伝統を守りつつも下級生を含めチーム全員が主体となるチームへ。新たな意識改革が青山学院大の新時代をつくりあげるかもしれません

 

 

 

 

 

 

 

【箱根駅伝】東洋大・エース松山和希「今までで一番苦しい時期」 どん底から救った両親の言葉

東洋大学・松山和希選手

前回大会を10位で終え、18年連続でシード権を獲得した東洋大学。しかしエースの松山和希選手は直前の体調不良で、走ることすらかないませんでした。 【一覧】東洋大学 第100回箱根駅伝のチームエントリー16選手 「今まで陸上をやってきた中で一番苦しい時期だった」と当時を振り返る松山選手。前を向くきっかけをくれたのは、どんなときも応援してくれる両親の言葉でした。

■夢の舞台で鉄紺のエースに

1年生で花の2区を任された松山和希選手(写真:アフロ)

松山選手にとって、箱根駅伝は夢の舞台でした。 「初めて箱根駅伝を見たときに、ここで走ってみたいという気持ちが芽生えて、将来の夢が箱根駅伝になったと思います」 子供の頃からの夢をかなえるために東洋大学へ入学し、その夢は1年目で実現します。 1年生で任されたのは、各大学のエースが集う花の2区。緊張やプレッシャーを感じさせない見事な走りで、1年生の日本選手2区歴代2位となる好成績をたたき出しました。 2年生でも2区を任された松山選手は、チームの順位を4つ押し上げる区間5位の快走を見せます。夢の舞台で名実ともに主役となり、鉄紺のエースの座をつかみ取りました。

■けがと病気に阻まれ 無念のメンバー外

しかし3年生の8月、順調だった松山選手に影が差します。足首を痛め、駅伝シーズンに向けた合宿は不参加。出雲駅伝と全日本駅伝は欠場せざるを得ませんでした。 同年の12月、けがから復帰した松山選手は苦しい表情を見せながら、箱根駅伝に向けた練習に食らいつきました。監督や仲間に支えられ、なんとか最後まで走りきった松山選手でしたが、直後にインフルエンザにかかってしまいます。最終的に箱根駅伝のメンバーには選ばれませんでした。 「なんとかぎりぎりつないできている中で、ここでか、というところでとどめをさされた」と3年目で初めてのどん底を味わいました。

■「やっぱり一番重い」両親からのメッセージ

松山選手の父・崇之さんと母・美有紀さん

松山選手はつらい状況を、両親に連絡できずにいました。前回大会は応援自粛が解除され、「1回くらい(現地で)見てほしいなと思っていて、でもチャンスを逃してしまったので、すごく申し訳ない気持ちが大きかった」と振り返ります。 松山選手の父・崇之さんは「せっかく応援自粛が解除されて、現地で応援することができる条件がそろった時に、肝心の自分がでられないというのは、我々には言いづらかったっていうのもあると思う」と連絡できない気持ちを理解していました。