欲をすてて、自我の消滅を受け入れ、未来からの要請に従う。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

”秋山なお”の美粒ブログ

音楽、ナノテク、微粒化、日々の思いをつづっています。
微粒は、美流でつくられ、美粒となります。その思いをつづっています。

 どんなに、我の強い人でも、どこかで終わりが来る。未来永劫、己の我が存続することはない。始まりがあれば、どこかで、終わりがくる。そうして、新しいものが生まれる。人は、自我をもつ。それは、ある意味、一つの小宇宙かもしれない。精子と卵子が合体して、生命が生まれ、そこに、一つの意思が生まれる。ひとり、ひとり、絶対的なものである。それが、個体である。兄弟でも、子供でも、血縁がつながっていようがいまいが、一つの意思、ひとつの我が、そこに宿れば、それは、別のもの。自分の子供でも、別人格、別の固体、それぞれの小宇宙をもつ。思春期で、それぞれの我執が生まれてくる。自分が感じたことと、子供が感じたこと、親が感じたこと、同じではない。それぞれが、それぞれの個体の中で、どう感じたかなど、わからない。分かるようにおもうのは、共同幻想である。なぜなら、親が死んでも自分は残る。子供が死んでも、自分が生きていたら、自分は残る。自分の意思は、生きている限り、ここにある。しかし、自分が死ねば、同じように、自分は消滅し、自分の意思も、我もなくなる。もちろん、来世があり、そこに死者の魂はやどり、お正月、お盆には、この世に帰ると、思って、死者を敬うのは、悪いことではない。そうやって、生きて、がんばって、暮らすのも、悪いことではない。それをどう思うのかは、人、それぞれである。

 

 

 しかし、今の宇宙のあり様をみれば、この地球にも終わりがくる。もし、人間という生命体が何億年後も生き延びるのであれば、地球から出ていかなければならない。そして、もっと、気の遠くなる未来において、やはり、人類にも終わりが来る。生命が存続できない条件が来るからである。すべてに、始まりがあれば、終わりがある。これはどうにもならない。

 

 

 自分は、生まれる前のことは分からない。だから、死んだ後も分からないだろうと思う。それは、どうにもならない。少なくとも、その因果を受け入れなければ、どうにもならない。毎日、人は眠る。そして、次の朝、目が覚める。これは100%、保証されているわけではない。寝ている間に、地震がきて、そのまま、ぽっくりと行く人もいる。寝ている間に、心筋梗塞や発作が起きて、そのまま、消滅することもある。大抵、亡くなる人は、寝ている間に、息を引き取る。生命が維持できなくなれば、それぞれがもっている力で、自分のDNAを自分で切っていく。そうして、自分で自分の命を終わらせる。

 

 

 若者には未来がある。人生には、分水嶺がある。それが、50歳前後だが、今は寿命が延びたから、55歳ぐらいかもしれない。会社員であれば、自分が、取締役になれるか、役職定年を迎え、そのまま、定年まで働くか、大体、自分の未来が分かってくる。人生は一度きりでも、チャレンジができる、それは、ずっと、人生が、上り道だと、思えるからである。苦しくても、がんばれば、頂上にでる。しかし、その道がどこかで途切れ、後は、下る道、下る道もどこかで靄がかかり、視界が良好ではない。

若者には、自我がある。誰にでも、自我がある。かけがえのない自分という自我である。それを意識して、頑張るのが、人生だと思う。それが、生きることの本質だと思う。それは正解、しかし、それも、条件がある。分水嶺を越えるまでの論理である。現実という壁、人間の限界の壁が待ち受ける。物を力いっぱい投げる。物は、放物線を描いて、落下する。空気という抵抗と、地球の重力によって、投げたものの重さ、投げた時の力と方向で、どこに落下するかは、予想がつく。ロケットを飛ばす。その重さに対して、起爆する力によって、大気圏を越せるか越せないか、その軌道に乗せられるかどうか決まる。

 

 

 人間、どこまで、生きるか、すべて、結果論でしかない。早く、ぽっくりと行く人は、結果からみて、それが運命だったという事になる。その人がいい人かどうかではない。その人がもっている生きるべき必然性があるかどうかなのである。それは、本人には分からない。本人の思いと、未来の必然性とが、一致するとは限らないからである。10年後の未来は10年後にやってくる。30年、50年も、100年後も、その時にやってくる。その人がやっていることが、その未来にとって必要なものなら、その人の生きたことが、その未来の必然性に深く関わることになる。未来からの要請に対して、その人の人生は、大きく変化することになる。

 

 

 欲をすてて、自我の消滅を受け入れ、未来からの要請に従う。禅からみれば、正しく、無我という事になる。人間は、誰でも、自己中心的に物事をみる。神様の視点で物事など、見れない。こちらも、自己中心的、相手も、自己中心的に物事をみる。そうなると、世の中は、たぬきときつねの馬鹿試合ということになる。そうなれば、大抵は、共倒れする。うまくいく人は、大抵は謙虚である。腰の低い人ほど、人の人望は厚い。

 

 

 宇宙は、加速膨張している。そして、この宇宙は、エネルギー密度が一定になるように、どこからか、この宇宙にエネルギーが注がれている。どうも、そういう事らしい。ということは、人間の論理を越えた因果が、この宇宙全体を支配しているということになる。ここも、あそこも、月の上も、遥か彼方の銀河の上にも、同じエネルギーが加速して膨張していく空間に均一に注がれている。人間は、自分の我執の壁でその論理を排除している。それが、利他のためになるのなら、自利はわきにおいたらいい。利他の中に自分も含まれていることを人は忘れるのである。自利ファースト、利他セコンドということを考えれば、まず、事は進まない。うまくいく人とうまくいかない人の差は、ここにあると思っている。

 

 

 欲をすてて利他に尽くす。それが結果的に、最大の自利につながる。世の中とはそういうものである。一時、損したような感じになるが、結果的に、その何百倍のものが帰ってくる。意地汚い人の思いは、いつの世でも、逃した魚はあまりにも大きすぎた、という事になる。