えのき、大樹のように、大空に精一杯、がんばって、伸びたらいい。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 もう、50年以上、前になる。私は、中学三年生の時、ネフローゼ症候群を患った。今とは、医療のレベルが異なり、長期入院が必要だった。今なら、蛋白が陰性になり、ステロイドが、30mmg/日以下になれば、退院させ、通学許可が得られた。そうであれば、留年というつらい選択をする必要もなかった。そのため、殆どの人が、高校進学していく中で、ひとり、置き去りにされる私に対して、ほぼ、学年全員の人が、私に、添え書きを残してくれた。殆どの内容が、がんばれという内容だった。200人以上いた学年の中で、ひとり、A4の画用紙に、樹木の絵をかいてくれた人がいた。その横に、誰かの詩か、その人の散文かは、定かではなないが、何かの詩が書かれていた。文言は、わすれたが、下記のような内容の詩だった。

 

今は、底なしの暗い闇かもしれない。

希望は見えないかもしれない。

しかし、樹木のように、精一杯、がんばったらいい。

春になれば、大空に伸びた枝に、一斉に新葉が生まれる。

この樹木のように、生きたらいい。

 

 

 その添え書き等は、どこかで、なくしたが、いまでも、その絵のイメージだけは、鮮明に覚えている。それが、頭のどこかにあった。そうして、いつも、散策している公園、さつきの陽光のした、雲一つない晴天に、きらきらと、風にゆらぐ大樹が、遠くから目についた。入道雲のように、その大樹が盛り上がっているようだった。あれ、と感じた。自分の記憶の中の何かと重なった。私は、その大樹の下にいき、上を見上げた。その葉っぱのかたちと、小さな実から、すぐに、それが、えのきだと、分かった。その時、実際に見上げた構図と、50年以上前にもらった絵の構図が、ぴったりと一致した。あの人は、これを書いたのか、と一瞬で、分かった。そうだったのか、私は、えのきの樹皮を触った。おまえは、ここで、何年、何十年、生きているのか、そう問いかけた。スマホで写真をとった。

 

 

 それを書いた女性(当時、15歳の少女)、今、生きているかどうか分からない。同学年の人でも、亡くなっている人もいる。私よりも年下の人で、この世を去った人もいる。もちろん、私よりも長く生きている人もいる。15歳だった私には、当然だが、それからの未来など分からなかった。自分がどのような人生をそれから歩むのか、分からなかった。人生とは、何なのかも分からなかった。しかし、それから、50年以上の月日が流れている。順風満帆な人生ではないが、山あり谷ありであるが、大体、世間並以下かもしれないが、一通りの経験はしている。それでも、今、現在、こうして、生きていられるのは、ラッキーだと思える。

 

 

 人生は、短いようで長い。だから、10代でうまくいかなくても、腐らないことだ。そして、人生を棒に振るような、事だけはしてはいけない。世間は広いようで狭い、いいことは、忘れ去られるが、悪いことは、ずっと、記憶に残る。だから、罪を犯すようなことだけは、しないほうがいい。過失は、どうにもならないが、故意で、罪を犯さなければ、世の中、何とかなるものである。

 

 

 がんばっても、上手くいくとは限らない。しかし、がんばらなければ、何も生まれない。生きるというのは、何かをすることだ。人生で一番つらいのは、何もすることがないことである。希望するものになれなくても、今できる事をやって、生きること、つまり、生計を立てられるように、金を得ること、仕事をすることである。そうして、どうしたら、さらに、お金を得れるのか、それを考えて、頑張ることである。

 

 

 人生に、無駄なことはないというのは、やはり、正論である。二の矢、三の矢を放てる人の方が、懐がひろいのは事実。色んな事ができ、色んな知識を持っている人の方が、人の上に立つ。人生、遠回りした人の方が、最後まで、生き抜くことができる。

 

 

 若い時は、自意識が勝つ。宇宙の中に、自分が一つと、その実存性を意識する。それは、それで正しい。しかし、人は、どこかで、分水嶺を迎える。人生は永遠の上り道のように感じて、頑張るが、どこかで、道が途絶え、坂道となって、その先の道が靄の中に消えているように見える。自分が、どこかで、滅びゆく存在だと、感じざるを得なくなる。その実存性が揺らぎだす。そうすると、だんだんと、自我の囲いが、もろく、儚いものだと見えてくる。自我の消滅を受け入れざるをえなくなる。くたばる最後まで、がんばるしかないと、思えてくる。じたばたしても意味がない。まあ、いいか、と思わざるを得なくなる。

 

 

 この宇宙は膨張している。それは事実らしい。そうして、この宇宙のエネルギー密度は、どうも一定のようである。そうなると、この宇宙に、どこか別なところから、膨張した分、エネルギーが加速度的に途切れることなく注がれていることになる。この宇宙の中に自分はいる。そうなると、その別なところから注がれる新鮮なエネルギーは、自分にも注がれていることになる。囲われていれば、水は腐る。湧き水のように、常に、地下水が沸き上がり、それが、流れていて、そして、そこに、一定量の水が池に保たれていれば、その池は、常に新鮮で、綺麗である。それと同じで、自分で、自分を乱さなければ、自分は、宇宙のエネルギーで、常に洗浄されていることになる。

 

 

 自分の自意識の壁が、自分を苦しめる。自分で、自分はこうあるべきだと、自分を押し付ける。人生、そうだとは、限らない。なるようにしかならない。一緒にいて、楽しいと思える人と一緒にいるのが、一番いい。その職場がつらいのなら、その状況が、嫌なら、それは、別な状況、変化をその人が求めていることになる。そうなれば、人生は不思議なもので、何かしらの転機が、用意されるものである。どう選択するかは、その人、次第である。人生は、こうあるべきだと、決めつけることは、やめた方がいい。最後まで、どんな可能性が残されているのか、だれも分からないからである。最後は、じたばたしないで、その時がきたら、この宇宙の因果の中にもどったらいい。

 

 

 ヨガや気功や太極拳、瞑想等、そこでは、呼吸を整え、この宇宙の霊気を取り入れたらいいと書いてある。しかし、ここで、この宇宙が膨張した分、新たなエネルギーがこの宇宙に注がれているとは、どこも明記していない。この宇宙は無限だと、思っていても、意識のどこかで、宇宙の有限性を感じている。この宇宙も、どこか別なところとつながっている、つまり、間接的に、我々もどこか無限の所とつながっているという事である。それは、具象性のある神話の世界でなく、抽象的な無限の世界ということ、しかも、それは、この世を破壊するのでなく、ある揺らぎを与えるものだというもの。それは、美しい秩序を与える因果ということだと、感じている。若者なら、迷わず、その道をあるけばいい。迷ったら、たちどまったらいい。倒されたら、再び、起き上がり、歩き出せばいい。人生の分水嶺を越えた人なら、今までの経験を生かして、利他につくせばいい。