花の美しさ、樹木の生命力、人生の伸びしろ。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 児童公園の入り口に樹木が植えられている。今、白い花が下向きにたくさん咲いている。そこに、蜂が群がっている。えごの木である。特徴的な下向きに雨だれのように、咲く。花が咲かなければ、その木がエゴの木だとは、誰も気が付かない。そこは、何回も通っている。視界には入っていても、記憶にない。しかし、それが、えごの木だとわかれば、それから、私は、その木を意識する。樹木は、花や実がならないと、樹形や葉の形だけでは、なかなか何の木なのか分からない。

 

 

 私が散策するルートには、樹木がたくさん植えられている。ブナの木が色々と植えられている。全部、どんぐりの実がなる木である。樹木に名札があれば、わかるが、その名札も全部の木についているわけではない。今、私がもっているスマホに、新しい機能がアップデイトされた。つい先日、最新版のAI機能が、ダウンロードされた。その中で、検索機能が付いている。花を映せば、一発で検索ができる。ブナ科でも、色々な種類がある。しらかし、あらかし、まてばいし、いしのき、そして、一番、目にするのが、くぬぎである。よほど、樹木に興味がなければ、ただ、全部まとめて、樹木となる。とくに、しらかしとあらかしの区別は難しい。しかし、よくよく見ていると、そこに違いがある。それぞれの特徴がある。見るという行為、見られているという作用、そこに、ひとつ、ひとつ、樹木との交流が、感じられる。私は、これから散策のたびに、一本、一本、それらの樹木の前に立ち止まるかもしれない。そうして、それらの、それぞれの樹木の変化を観察し、写真におさめることになる。これから、熱い夏を迎えても、樹木は耐えて生きるだろう。そうして、からなず、それぞれの実、どんぐりをつくり、大地に落とす。そこに、鳥が集まってくる。むくどり、はと、ひよどり、すずめ、からす、がそこをねぐらとする。

 

 

 常緑樹のくすのき、落葉樹のけやき、えのき、あきにれ、さくら、さるすべり、もくれん、こぶし、はなみずき、もちのき、低木として、はなずおう、あじさい、つつじ、きんもくせい、ゆきやなぎ、れんぎょう、こでまり、色々な街路樹が植えられている。

 

 

 見る事、そして、その名前を憶えて、それぞれの個体を意識することである。樹木は話しかけてくる。そうすれば、こちらからも話しかければいい。樹木を、花を、実を、触ってあげればいい。匂いがあれば、それをかいであげることである。そうしていれば、かならず、それらに慣れてくる。異物でなく、自然にある微粒子と認識するはずである。異物として認識するから、アレルギーが起きる。

 

 

 それは、何も、樹木だけではない。人も動物も同じである。見てあげる。その人を、他のひととちがう、その人だと、その個体を認識することである。そうすれば、その人も、かならず反応する。反応しなければ、こちらから、声をかけることである。声をかければ、相手は、かならず、反応する。存在は、だれかに、見れられること、さわられること、声を聞かれることで、確定する。それが、相互作用、それぞれが生きていると確認しあう行為である。

 

 

 花の美しさは、見られることで、その美しさが確定される。だれも、見る人がいなければ、花は美しくなる必要はない。女性が美しくなるのは、見られる人がいるから、美しくなるのである。誰も、見てくれる人がいなければ、美しくなる必然性は起きない。

 

 

 人は、年をとる。だれでも、人生の分水嶺は存在する。人の成長はどこかでとまり、どこからか、下降して、最後には、力尽きて、生命を閉じる。それは、抗う事はできない。最初があれば、どこかで終わりが来る。若い時は、自意識がつよく、だれでも、自己中心的にものごとを考える。それが、生きることだと思う。それはそれでいい。しかし、自分が、滅び行く存在だと、気づけば、どこかで、世の中のあり様に抗う事に意味がないとわかってくる。だんだんと、自利から利他へと視点が移ってくる。その視点の移動がないと、欲どおし人と思われてくる。我の強い人だと、思われる。若い時はそれでいい。しかし、その強いエゴを軽くしていかないと、どこかで、破綻していく。見苦しい爺、婆、という事になる。

 

 

 女性が結婚する。子供ができる。子供がある程度、親離れするまで、子育てに時間がとられる。子供が社会に順応して、それなりに生きられるようになるには、夫婦の協力が必要である。その時期が、その次へ飛躍できるか、できないか、重要な時期となる。ある意味、潜伏期間、潜熱でもある。そこで、離婚する人もいるかもしれないし、そこを乗り越えて、その後、離婚する人もいる。もちろん、そのまま、死別するまで一緒にいる人もいる。

 

 

 人生に、重要なのは、伸びしろがあるかどうかである。ひとには、その人ができうるであろう容積がどこかで決まる。その人の可能性である。伸びしろというのが、その人の可能性である。それが、現実という壁にも影響を受ける。それに、近づいて、飽和になれば、その人には動きようがない。つまり、そこに発展性がないということになる。それが分かってくると、だんだんと、いら立ってくる。自力で、その発展する状況があれば、だいたい、道は開ける。その人には伸びしろがあるからである。70歳でも80歳でも、そこに伸びしろがあれば、それはできる。若くても、伸びしろがなければ、人生は、そこで、終わる。同じところをぐるぐるまわって、いつか、力尽きて、体がさび付いて、終わりになる。

 

 

 人は、自分の中にあるものを捨てることによって、新たなものをえる。そこに必要なのは、勇気なのである。あらたなものにチャレンジする勇気である。そうして、色んなものが、それぞれ相互作用を起こす。そのことで、自分が何をしなければならないかが、わかってくる。見えなかった自分の伸びしろが見えてくる。自分の中にある可能性がなくなって、伸びしろがなくなったら、そろそろ、終活の準備をしたらいい。