人生の最高到着点からゆっくりと、ゆらぎながら、あの世へと遷移する。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 人は、知らないうちに、自我をもつ。しかし、それも、幻想かもしれない。3歳で死ぬ人、10歳で死ぬ人、20歳、30歳、40歳、そして、80歳、90歳、100歳で、往生する人もいる。しかし、それも、永遠ではない。自我が確立する前に亡くなる人、生まれることもなく、水子として、生命を閉じる人もいる。人の運など、誰が決めたか分からない。この世が、平面なのか、多次元なのかも分からない。この宇宙が少なくとも、我々の五感で見える範囲、この次元に拘束されている状況で、我々は、この世、この宇宙のあり様を見ているに過ぎない。違う次元の人がこの世と交錯して、今のあり様を考察すれば、まったく違った状態が現れるかもしれない。それは、わからない。すくなくとも、人間という組織体が、この時空間の中で、垣間見れる世界、それを、我々は見ているに過ぎない。生まれる前のことはわからないし、死んだ後のことも、分からない。死んだ後、どこかで、別の意識の目が開いて、まったく違った世界が現れるかもしれない。それを希望しているが、それは分からない。すくなくとも、生まれる前の意識がこの世で復元できないのだから、我々が、自我を感じられるのも、この世という場での話だけなのだろう。

 

 

 人は、どこかで、人生の最高地点に達する。それが、どこだったかは、死ぬ瞬間までわからない。死ぬ瞬間、その人の人生がすべて決定する。それまでの月日が、運命だったということができる。悲運で、命を落とす人もいる。さぞかし、無念だろうという、非業の死を迎える人もいる。昔、小さい我が子を残して、死んでいった、お母さんを見たことがある。小さな子供がお母さんのベッドにのって、遊んでいた。お母さん、お母さん、といって、じゃれていた。そのお母さんは、死んでいかなければならない自分の運命を呪ったかもしれない。自分がいなくなってもいいように、一生懸命、ノートに、自分の思いを書いていた。そして、残酷にも別れの日がきた。お母さん、お母さん、子供の慟哭が、夜の病棟に響いた。同部屋にいた、男の人が、仕方がないな、といっていた。その人も、数か月後、亡くなった。

 

 

 そのお母さんの最高地点はどこだったのかと思う。すくなくとも、死んでいったその日が最高地点とは思えない。そのお母さんにとっても、どこかに、最高地点が存在していたはずである。結局、人は、どこが最高地点かなど、わかることなく、散っていくのが常である。

 

 

 世の中は、栄枯盛衰、だから、若い時に、栄華を極めると、後がつらくなる。栄華を極めたら、その次の栄華はふつうは来ないからである。ずっと、頂点を走り続けることなど、たいていはできない。人生は、基本的に、山あり谷ありだからである。人生は、グライダーとおなじ、人生の最高到着地点までは、なんとか、いく。しかし、そこからは、下降である。どこまで、飛べるかが、その人の寿命になる。おごり、高ぶり、坂道を転げ落ちる人もいる。グライダーでいえば、失墜して、墜落である。

この世は、どこまでも、波動で満ちている。最高地点から、かならず、減衰していく。そして、その減衰する流れに、人の振幅の様態が重なる。その様態の中に、乱れ、揺らぎ、よどみが、入ってくる。乱れは、振幅の振れ幅が大きく、それも、滅茶苦茶になっている。水の流れでいえば、乱れは、津波である。そして、揺らぎとは、心地よい波動である。清い河の流れである。そして、よどみとは、停滞である。川の流れも滞り、ボウフラが生まれる状態でもある。最高地点から、流れがよどんだら、どうなるか、腐って、崩壊することになる。乱れたらどうなるか、基本は、破壊されることになる。結局、揺らぎながら、減衰していき、自然と、消滅していくことになる。それが、一番、美しい生き方となる。

 

 

 明日なにがあるのか、わからない。しかし、明後日になれば、明日のことは確定されている。未来は不確定だと思われるが、それは、我々が見えないだけであって、明日、何が起こるのかは、もう決まっているのかもしれない。それが運命である。東日本大震災でも能登地震でも、それが起こったら、それは、必然にかわる。結果、命を落としたなら、それが運命ということになる。たぶん、1000年後は、決まっているし、一億年後も決まっている。100億年後もきまっている。もちろん、我々には、そこで何が生まれるのかはわからない。すべては、なるようにしかならない。類は類を呼ぶのは確かであるし、ひかれあう魂は、かならず、接近し、緊密になろうとする。男女や陰陽は、かならず、合体しようとする。その思いが深ければ深いほど、そうなる。その結果、乱れることもあれば、揺らぎながら、進展することもある。なにがいいのか、わるいのか、わからない。それは、なるようにしかならない。

 

 

 自分のなかで、これはいい、これはわるいと、決めつけて、自分を規制しても、よどむだけである。また、自由に、放埓に生きれば、乱れが生まれる。乱れれば、かならず、崩壊する。よどまず、みだれず、自然の流れのなかで、利他の中に自利を含めれば、うまく生きられるはずである。自分の心に蓋をすれば、かならず、乱れるか、よどむだけである。利他の中でがんばれば、かならず、自分を支えてくれる人が現れる。最後まで、夢や愛を抱いていきていなければ、かならず、どこかで失墜する。

 

 

 己のエゴなど、基本的に小さい。意地汚く生きても、死んでしまえば、何ものこらない。人生の最高地点は、どこにあったのか、今、下降しているなら、それは過去にあったはずである。もし、そうならば、自利から利他へと視点を変えることだ。そうすれば、今までみえなかった視界が広がる。別なところから、流れが起きてくるかもしれない。