すべては、なるようにしかならない。偽物はどこかで消えていく。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 人生、誰でも、この世に生まれた以上、どこかで最後の時を迎える。どんなにがんばっても、100歳まで、ぼけずに生きられたら、それはすごいこと。そこまで、いかずとも、78歳ぐらいまで、生きられたらそれはそれでいい。それが、いつ来るか分からないが、それは、確実にくる。最後の晩餐ではないが、どこかで、最後の日の前日を迎える。だれも、自分が明日、死ぬとは思わない。しかし、結果からみて、事故、事件、災害で、亡くなる人がいる。その人が、自分が明日、死ぬとは、誰も予想などしていない。今日は、いつものようにおわり、明日が、昨日が今日になったように、来ることを想定する。20歳、30歳、40歳、50歳、60歳、どこでどうなるかなど、誰もわからない。災害なら、どうにもならない。

 

 

 人には、エゴがある。自分が培ったものを、明け渡すことは、簡単にはできない。権力や地位に死ぬまでしがみつく。しかし、そう思っていても、幕切れは、突然、前触れもなく襲うこともある。歴史をみても、世襲で権力が譲渡されていても、それが永遠に続くことはない。あれほど、栄華をほこった豊臣秀吉も徳川家康にあっさりと、ひっくり返された。その徳川も、幕末を迎えて、大政奉還をした。戊辰戦争で、その旧幕府軍は、壊滅した。俺が死んでも、後は、息子を頼むといっても、大体、数年でひっくり返される。

 

 

 ひとりの人間のエゴで、物事は、きまらない。権力にしがみついても、結局は、それが単に利害関係で結ばれていたものなら、その権力基盤が消えれば、それでおしまいとなる。安倍元首相が、生きていたら、彼に右顧左眄する人もいるだろうが、死去すれば、安倍元首相に忖度する必要もない。安倍元首相に忖度して生きてきた人は、その基盤が亡くなれば、その運気も、そこで消滅する。まして、虎の威を借る狐のような言動をしていたなら、もう、相手にされない。その落差は、きっと、甚だしい。だから、いずれは、失うものだから、それに固執していきないほうがいい。いずれ、失うものなら、世のため、人のため、利他の目的に徹して生きた方が、楽である。

 

 

 すべては、なるようにしかならない。偽物は、かならず、どこかで、それが偽物だと見破られる。ひと様のものを、盗作して、あたかも、自分がつくったかのように吹聴しても、その作る過程をへずに、結果だけをパクったのだから、かならず、突っ込まれたら、ぼろがでる。なぜ、そういう結論になったのか、その論理過程を経ずに、結果だけまねても、応用が利かない。コピーしたものだけなら、作れるが、それから、外れたものは、作れない。仮につくっても、そこに、それを作った論理的根拠がないから、贋作者は、常に不安になる。いつの世でも、本物はひとつ、贋作が本物を超えることはない。もし超えたら、それはもはや贋作ではなく、新たな創造物となっている。

 

 

 未来は、決まっているように思える。1000年前、その時、1000年後の今は、こうなるようになっている。それは、結果があるからである。過去の結果が今である。そして、昨日と今日との間の結果によって、未来は決定づけられている。その微妙な差異が、1000年間の蓄積を経れば、1000年後の未来はそこに現れる。それが我々の思考である。それは、我々の次元での話であって、それとは異質な次元の人からみれば、そうはならない。もしかしたら、もう未来は、決まっていて、その未来がそうなるように、今が動いているように、私には思える。私が生まれて、その間にこの世となにかの相互作用をおこし、なにかを生み出す。そして、私は死ぬ。それは、未来がそうなるようにするために、仕組まれた運命とみることもできる。すべては、死んだ、その時に、私の運命はそこで決定される。未来は決まっていないように見えるのは、我々には、それがわからないからだ。自分の意思で動いているようにみえても、そうなるように、仕組まれていたともいえなくはない。

 

 

 人との出会い、男女のであい、物事とのであい、それは、そうなるように決まっていたともいえる。それは、未来が未来であるために、そうなるようになっている。好きで結婚しても、数年以内に、罵詈雑言を浴びせ倒して、わかれるひともいる。略奪結婚して、一生を幸福に終える人もいる。世の中は、何がいいのかわるいのかなど、わからない。それは、未来が未来としてそうなるように、今を作っているかのようである。行動するのは、人の意思である。しかし、その意思も自分でそう決めているよりは、未来からの要請がそういう意思をつくりあげているようにも思える。どんな行動もそれを正当化することは、たやすいことである。戦争で人を殺しても、為政者は、それを、正当化しようとする。

 

 

 大事なのは、そこに誠があるか、そこに、利他はあるのか、そこに、愛や真理があるのかである。類は類をよび、それが、新しい未来を作るのだが、そこに、醜い己のエゴがあれば、きつねとたぬきのだましあいが生じ、ともに、倒れる。そこに、利他があるから、類は類をよび、新しい未来ができる。10年後、どうなっているのか、100年後、どうなっているのか、それはわからないが、きっと、10年後の世界がそうなっているように、今が作られるような気がしている。