知られざる高野山の歴史  | ♫ラジオ寺子屋・高野山♫ 南山坊のブログ

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高野山駅からバスに乗り女人堂を過ぎると一心口という停留所があります。

今では近所の子ども達の遊び場所となっている金輪公園内にひっそりと建つ金輪塔は、高野山に伝わる法流の一つ中院流を開いた明算(めいざん)の廟と伝わります。

高野山の寺院や僧侶について書かれた『金剛峯寺諸院家析負輯』には「一心院谷に葬る。相伝ふ、今の金輪塔は(明)算みずから建立す。もと奥の方の塔の壇といふ処に在り。其の塔の下乃ち廟窟也」と記されています。

この塔は『紀伊続風土記』によると、一心院焼失の時に類焼し、天保5年(1843)に再建しました。


さて、この金輪塔が建つ一心谷が高野山史でも稀有な場所であることを知る人は多くありません。

そもそも、この谷の名称は、行勝上人によって創建された一心院から名づけられています。
上人は高野穀断聖人行勝房と呼ばれ初期の高野聖で、いわゆる一心院聖(五室聖)の祖といっても良いでしょう。

また、高野山の四社明神の内、厳島明神と気比明神は行勝上人の夢告により当地に勧請されたとされます。それ故、高野山の鎮守社である丹生都比売神社では、若宮に行勝上人を祀っています。

話は戻りますが、一心院の二代院主である貞暁(じょうぎょう)は、鎌倉幕府初代征夷大将軍 源頼朝の実子ですが、正室 北条政子の子ではなく、侍女 大進局の庶子であるために正室の嫉妬を避けて『方丈記』にも記された仁和寺 隆暁(りゅうぎょう)法印の室へと入り出家しました。
貞暁は後に、隆暁の跡を継ぎ仁和寺の院家寺院 勝宝院門主となりました。

貞応二年(1223)貞暁によって一心谷 寂静院が建立され丈六の阿弥陀堂を造り鎌倉三代将軍が供養されました。今の五坊寂静院です。

現在、壇上伽藍に建つ国宝 不動堂も一心院金輪塔の傍にあり明治41年の解体修理の際に移築しています。

貞暁亡き後も仁和寺 勝宝院門主が、高野山一心院院主の職を相承したことから、一心院は高野山内にも関わらず金剛峯寺の支配下ではなく仁和寺の影響力が及ぶ寺院であったのです。

古絵図には一心院入口に総門が描かれていることから、何かしら往来は制限されていたのかも知れません。ただし、江戸初期までには金剛峯寺の管轄となっています。

このように中世の高野山は、金剛峯寺僧徒によるだけでなく、ここでは詳述しなかった様々な寺院勢力が複雑に入り組む場所でありました。
その辺りのことは、後日触れていきたいと思います。

写真は四季折々の金輪塔