米国で人々が片膝を地につける姿を映像で見ますが、人種差別への抗議と連帯を表しているそうです。
有色人種への差別行為は、コロナウィルスが広まる欧米でもアジア人へも向けられました。
今に始まったことではないですが・・
世界で広がる負の連鎖はとどまることを知りません。但し、そこから派生する暴動や略奪は当然ながら許されるべきではありません。
怒り、悲しみ、不安というネガティブな負の感情は2500年前の世界でも同様に発生したわけですが、ブッダはこのように申されています。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。」
「戦場において百万人に勝つとしても、ただ一つ自己にうち克つ者こそ、実に最上の勝利者である。」
『ダンマパダ』
ブッダの箴言は、今の時代にもまったく当てはまるので心して感じ入ることが大切です。
写真の下にも続きます。
出典:ColBase 所蔵 奈良国立博物館
如意輪観音菩薩は、片膝を立てあわせ、手を頬にあてておられます。
これは、いかにして苦悩する人々を救わんとするか思惟されているお姿といわれます。
このお姿を見て、経典の言葉が浮かびました。それは大乗経典の智慧の宝庫である『維摩経』(ゆいまきょう)です。
維摩居士(この経典の主人公でひたすら求道する在家の聖人)が病いにかかったところへ、文殊菩薩が見舞いにやって来られて、病いの原因を問います。
そこで維摩はこのような返事をしました。
「痴より愛あり、則ち我が病を生ず。一切衆生病めるを以てこのゆえに我病む」
つまり、病いの原因が深い迷いの無明である「痴」であると。
その迷いから愛(これはLove ではなく渇愛・カツアイという自分の執着心)が生まれて人々は病いにかかってしまう。
そのゆえに、私(維摩)もまた病んでしまった。
すなわち、衆生(人々)の病いに寄り添うがために維摩居士も病んでしまったのです。
この後、さらに維摩は語ります。
「もし一切衆生病まざることを得れば、すなわち我が病い滅せん。所以はいかん。菩薩は衆生のための故に生死(しょぅじ)に入る。生死有れば病いあり。」
菩薩は生死(迷いの世界)で病み苦しむ人々がいるから世に現れます。もし人々が病いから解放されれば、菩薩も病気になることはありません。
まさにこれは、菩薩の大いる慈しみと哀れみ(compassion)から生じたものですが、逆説すると慈悲があるからこそ病になったと言えます。
あるチベット仏教の本には、共苦(チベット語でニンジェ)ということが書いていました。
あまり馴染みのない言葉ですが、他者が苦しみから離れますようにというニュアンスがあるそうです。
日本語には共感共苦という言葉がありますが、これも現在ではほとんど死語になりました。
コロナ禍や様々な問題で溢れる世の中ですが、抜苦与楽の慈悲心を忘れないように生きることが大切です。