真の宗教を見分ける眼を持ちたいものだ
日本人は元来、宗教心の篤い民族である。崇める対象を純粋に見極める眼をもっていたはずである。
しかし、悲しいかな、今はそうでなくなっている現象がいたるところに見られる。
国の進むべき大事な道を議論する最高機関である国会が、つまらないニセ宗教のために忙殺されている。しかも、宗教の何たるかを議論もせず、つまらない枝葉のことで、偉い先生方が真剣に議論している。時間と国費の無駄である。バッサリと悪しき実を結ぶ木は、その根元から切り倒すべきである。しかし、日本は民主主義社会だから、それは出来ない。
ならばどうすべきだろうか。
一人ひとりが宗教を見分ける眼を持つ以外にない。
「お金を送れ」は「振込みサギ」とは常識になった。
同様にお金を言い出す宗教は、ニセ宗教。
お金によって魂や家族が救われるという宗教は、ニセの宗教。
教祖が金ぴかの服や冠を着けていれば、ニセの宗教。
大きな講堂や伽藍を立てて人目を惹く宗教は、ニセの宗教。
などなど、一目瞭然である。
人間の魂は、そんな安っぽいものではないのだ!
「全世界を儲けるとも、もし人が魂を損じたら何の益になろうか!」と、イエス・キリストは私たちに語っておられる。
逆説だが、ニセ宗教は、何がほんとうの宗教であり、救いであるかを教えてくれる。有難いことではないか。
南山 遥