【己を責めて 人を責むるな】内藤あすかの生き方③ | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

AIR PAVILION MUSIC AGENCY
代表取締役社長

Royal Escort Grand Prix
名誉会長

MR. & MS. RUNWAY MODEL UNIVERSE
インターナショナルディレクター

内藤 飛鳥

内藤飛鳥が踏み入れてはいけない土地。

{B77EEF27-8B42-497A-B7D8-A23B46BBB54F}

{83EDACB0-ADA9-4483-BA2E-51AF8C24967E}

あ、ハロウィンです。笑笑。


・神田山 延命院

・伏見城 血天井

・大手町 首塚


✴︎内藤家長内藤正成

{984E0D3D-784F-4754-B9F7-42D6F2E733D7}

上は私が簡易的に纏めた家系図。
下は内藤家譜。

{487704E5-5F34-4DFC-A189-1C9470B1F713}

{8BEFD4C3-A5F1-4AD9-9F94-1DF7AD2AEF2D}

{8E80BD66-070E-4211-B29B-B5F947C2AB54}


譜代家臣内藤清長の妹に、主君松平広忠

(家康の父)のお手が付いてしまいました。


『藩翰譜』では内藤信成は嶋田某の子で、

内藤清長の養子、母は松平広忠の寵愛を受けて信成を身籠り、嶋田景信に嫁して3月後に出産。


事情を知った清長がこれを養子として育てたとの所伝です。


(新人物往来社刊行本『新編 藩翰譜』2巻101頁)。


内藤右京進某(義清)の娘(清長の姉妹)

と記載がありますが、矢張り名前はありません。


✴︎松平広忠


戦国時代の武将。

三河国額田郡岡崎城主。

松平宗家8代当主。

{EE055BAE-BA08-470D-998A-52E0A6A51A44}


{C62DA58E-45CB-4D87-8DEA-A36FFE95ACAF}

{1E8BEE0C-1A4E-4A60-B795-B7B7663832DC}

{8A3F4D33-5506-4B5D-950C-8F1E3799847C}


【岡崎城の沿革】
 
岡崎城の起源は15世紀前半までさかのぼります。
明大寺の地に西郷頼嗣(よりつぐ)によって築城されたのがそのはじまりです。

その後、享禄4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、
ここが岡崎城と称されるようになりました。

 天文11年(1542)12月26日、松平竹千代(徳川家康)は、ここ岡崎城内で誕生しました。

家康は
6歳で織田信秀(信長の父)
8歳で今川義元の人質となり、

少年期を他国で過ごしています。

永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、
今川義元が戦死したことを契機に自立しました


ときに19歳。

以来、岡崎城を拠点(浜松城に移るまで11年間在城)に天下統一という偉業への基礎を固めました。

松平信忠の子。松平清康。側近 内藤義清。

松平清康の子。松平広忠。側近 内藤義清。

徳川広忠の子。徳川家康。側近 内藤清長。



松平清康 画像


{3FCE34B6-8AFB-4581-8269-16E5778D735F}


※内藤 義清。


父は内藤重清。

子に内藤清長。内藤忠郷。

三女は石川数正の正室。

岡崎五人衆の一人。


※内藤清長。


19歳で家督を継いだ、

浜松にて徳川家康に召し出され、

小姓を務めて信任を得た努力家。


徳川秀忠(2歳、清成26歳)傅役。(ベビーシッター)


天正18年(1590年)正月には秀忠の供をして上洛した生粋の護衛。(ボディーガード)


徳川家康の異父兄弟である内藤信成は、

内藤清長の妹です。


内藤姫は嶋田家へ嫁ぎ、

そこで広忠の子どもを産みました。


内藤家譜に、この内藤姫の名前はありません。

女としか書いてないのです。


しかし嶋田家に養育を拒否され、生まれたばかりの子どもは

伯父である内藤清長に養子として引き取られました。


間の悪いことに、その翌年清長に待望の長子

(家長)誕生。


※内藤家長は、伏見城で絶命しています。


可哀想にどこにいても微妙にお荷物。

厄介者という複雑なシチュエーションで内藤信成は育ってきました。


☆信成は落胤☆

家康の異母弟は公然の秘密でした。


※家康の唯一の男兄弟です。


人々の好奇の視線にも晒され続けた筈です。


ただ義弟(本当はいとこ)である家長とは仲が良く、

戦では家長が信成を弓矢で助けたという話も伝わっています。


そんな家長は関ヶ原の直前、伏見城にて戦死。


信成はその後も生き続け、長浜城の城主として生涯を終えました。


信成ゆかりの地にある長浜の大通寺には、

家長の死んだ伏見城の一部が移築されています。

{C9969EE3-DE86-4A92-8B3A-7215D5C45814}