内藤飛鳥が踏み入れてはいけない土地。
あ、ハロウィンです。笑笑。
・神田山 延命院
・伏見城 血天井
・大手町 首塚
譜代家臣内藤清長の妹に、主君松平広忠
(家康の父)のお手が付いてしまいました。
『藩翰譜』では内藤信成は嶋田某の子で、
内藤清長の養子、母は松平広忠の寵愛を受けて信成を身籠り、嶋田景信に嫁して3月後に出産。
事情を知った清長がこれを養子として育てたとの所伝です。
(新人物往来社刊行本『新編 藩翰譜』2巻101頁)。
内藤右京進某(義清)の娘(清長の姉妹)
と記載がありますが、矢張り名前はありません。
✴︎松平広忠
戦国時代の武将。
三河国額田郡岡崎城主。
松平宗家8代当主。
【岡崎城の沿革】
岡崎城の起源は15世紀前半までさかのぼります。
天文11年(1542)12月26日、松平竹千代(徳川家康)は、ここ岡崎城内で誕生しました。
以来、岡崎城を拠点(浜松城に移るまで11年間在城)に天下統一という偉業への基礎を固めました。
松平信忠の子。松平清康。側近 内藤義清。
松平清康の子。松平広忠。側近 内藤義清。
徳川広忠の子。徳川家康。側近 内藤清長。
松平清康 画像
※内藤 義清。
父は内藤重清。
子に内藤清長。内藤忠郷。
三女は石川数正の正室。
岡崎五人衆の一人。
※内藤清長。
19歳で家督を継いだ、
浜松にて徳川家康に召し出され、
小姓を務めて信任を得た努力家。
徳川秀忠(2歳、清成26歳)傅役。(ベビーシッター)
天正18年(1590年)正月には秀忠の供をして上洛した生粋の護衛。(ボディーガード)
徳川家康の異父兄弟である内藤信成は、
内藤清長の妹です。
内藤姫は嶋田家へ嫁ぎ、
そこで広忠の子どもを産みました。
内藤家譜に、この内藤姫の名前はありません。
女としか書いてないのです。
しかし嶋田家に養育を拒否され、生まれたばかりの子どもは
伯父である内藤清長に養子として引き取られました。
間の悪いことに、その翌年清長に待望の長子
(家長)誕生。
※内藤家長は、伏見城で絶命しています。
可哀想にどこにいても微妙にお荷物。
厄介者という複雑なシチュエーションで内藤信成は育ってきました。
☆信成は落胤☆
家康の異母弟は公然の秘密でした。
※家康の唯一の男兄弟です。
人々の好奇の視線にも晒され続けた筈です。
ただ義弟(本当はいとこ)である家長とは仲が良く、
戦では家長が信成を弓矢で助けたという話も伝わっています。
そんな家長は関ヶ原の直前、伏見城にて戦死。
信成はその後も生き続け、長浜城の城主として生涯を終えました。
信成ゆかりの地にある長浜の大通寺には、
家長の死んだ伏見城の一部が移築されています。