【己を責めて 人を責むるな】内藤あすかの生き方② | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

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MR. & MS. RUNWAY MODEL UNIVERSE
インターナショナルディレクター

内藤 飛鳥


本多忠勝と徳川家康の前に、
兜を脱いだ状態の夏目信吉が分かるでしょうか?
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☆影武者 夏目信吉☆

清康・広忠・家康の三代に仕えた夏目吉信は
永禄5年(1562)小坂井東岡合戦の殿を務め
先鋒の松平親俊が崩れた際、家康公と供に力戦して反撃に成功し武功を揚げました。

こんな信吉が、次の年には三河一向一揆で家康から離反します。

三河一向一揆では信吉の他にもたくさんの家臣が一揆側に参加し家康公を悩ませました。

信吉は倉に潜んでいましたが家康側の松平伊忠に捕らえられました。

家康公は反旗を翻した吉信に対面し、
何も咎めず許し

伊忠も「元来吉信には武勇があり、一時宗徒に惑わされたのみ」と言って推挙しました。

渡辺半蔵や蜂屋貞次など一揆に参加した他の家康公の家臣たちも
皆何の咎も無く許され殆どが戻り、
一向一揆は解決しました。

一揆に参加した者たちは許しをくれた家康公に感謝し、これ以後は忠勤を励みました。

1572年、三方ヶ原で武田信玄との戦いがありましたが徳川軍は敗れ、

敗勢の中で死を覚悟した家康公は
家臣が止めるのも聞かず決死の突撃をしようとしました。

吉信は「端武者のごとき働きをなさって何の益がござろう」と諌言して
家康公が乗っていた馬の尻を刀の棟で叩き
浜松城(家康公の居城)に向けて疾駆させました。

家康が走り去ると、吉信は自ら軍を率い武田軍に突撃し、

家康公に扮して「我こそは家康なり」と名乗って身代わりになり、敵中に入っていきました。

武田勢は吉信を家康と思いこみ我先に敵の総大将を打ち取らんと攻めたて吉信は壮絶な討ち死にをしました。
この間家康公は無事に浜松城まで戻ることが出来ましたが、

吉信の死を聞いた家康公はその死を悼み感謝を深く心に刻みました。

のちに死病の床についた家康公は吉信の息子信次をよび

「今日までの長寿はそちの父の功によるものだ」と言って信次に加増しました。

反旗を許した家康公と許された恩義を忘れず誠忠に励んだ臣君の絆は
強い三河武士の結束を作り、家康公は家臣を宝と言いました。
  
吉信の三男信次は年少のころから家康側近に仕え、小牧・長久手に戦から、

大坂両陣まで家康に従って各地に戦い、
子孫は代々旗本家として仕えました。

明治の文豪夏目漱石はこの系の後裔で、
吉次の次男吉尚の子吉之を祖とするそうです。

因みに内藤飛鳥の叔母もまた、
夏目家に嫁いでいます。

本多は槍、
夏目は刀、
踏ん付けているのが武田の兵です。
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内藤家だけで無く、竹千代の頃から家康を今川に幽閉されて居た頃から支えてきた鳥居家も含め、

徳川家を必死に支えて来た家臣のおかげで、私も存在出来ています。


内藤信成だけが、唯一徳川家康の異母兄弟として生き残り、出自を隠し通して、

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正妻の息子である兄の家康の家臣として

支え続け、今の私が存在します。


可哀想に、松平広忠の血を分けた

徳川家康、内藤信成以外の男児は

全て殺されてしまいました。


唯一生き残る術として、

内藤信成は松平姓を名乗れませんでした。

殺されてしまうからです。


自分が一番嫌いなタイプの愛人が

先祖である、松平広忠の側室。


私のこの、戦国武者の様な心の鎧を

そろそろ脱がなければならない様ですね。