言葉を言い換えても、その実態は | なのはな22のふたり言

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本・テレビ・映画の感想が多くなると思います。たまにフィギユアスケート。
ミステリーや時代劇、ビジネスドラマが好きです。

いろいろな場面で言葉の言い換えを聞くたび、妥当だと思う変更もあれば、本質にレースのカーテンを掛けたような誤魔化しを感じる事があります。

 

売春→援助交際→パパ活がその最たるもの(売春はしていないと言い張る女性もいるけれど、それなら「たかり」で、ある意味ではもっとタチが悪いと思う)。

 

それから「中毒」が今では依存症になり、病気として治療対象のものなのだ、という意識が定着したのはいい変化なのでしょう。

ただ、昔の小説の中で「アル中」と言っていた部分を、「アルコール依存症」と後世に書き換えるのは、どうも釈然としない。

 

テネシー・ウィリアムズの「熱いトタン屋根の上の猫」に、主人公の男性が父親に自分の事を「俺はアル中なんだ」と言う場面があるんだけど、これが「俺は依存症なんだ」になっていて、「これだと彼の自虐感が伝わらないなあ」と思った事があります。

主人公がアル中を依存症と言い換えてしまうと、彼の自虐の絶望感が薄まり、むしろ「病気なんだから仕方ないだろ」みたいな言い訳めいた感じになりましたね。

 

 

マーク・トウェインの「王子と乞食」にしても、「王子と少年」にタイトルが変更された時は「ありゃー」でした。

境遇の対比を鮮明にしたからこそ作品の意味があるはずなのに、後世の変更を見たら作者もお墓の下でがっかりでしょう。

 

 

それにしても、この死語に認定されたはずの「乞食」という言葉が、婚活界隈では今も普通に使われているのを見てびっくりしました。

男性に奢ってもらうのが当たり前と思っている女性に対して「そういう女をコジキと言う」と痛烈な意見を見た時は、愉快な気分でした。

 

お見合いや仮交際中に男性が女性の分も支払うのは、ケースバイケースでО・Kとしても(高年収でない男性は無理をしなくてもいいと思う)、女性がもし「男が女に奢るのが当然」と考えているとしたら、あまり堅実な人とは思えない。

 

婚活界隈のネット民の話を聞いていると、「こんな言葉がまだ生き残っていたのか」と驚く事が多い。

 

それは「売れ残り」や「行き遅れ」だ。

 

1980年代を実感として知っている者からすると、その頃既に、「女性に婚期のプレッシャーを懸けるのはおかしい。何歳だろうと結婚したい時が婚期だ。売れ残りなんて言葉は言語道断!」という意見がほとんど世論になっていたように記憶している。

これはフェミニズム(男女同権主義)の結果としては当然で、その意見には共感もした。

だた一方、「子どもを産むつもりなら年齢には期間限定があるはず・・」とも思っていました。

 

 

少し話が横道に行きますが。

 

昔から、仕事では評価されている男性が女性関係にだらしないと、「下半身に人格はないから」と変な擁護をする男性がいたし、本人も厚かましくそんな事を言う男性がいました。

 

バカ言っちゃいけません。

下半身の行動こそ、その人の本性だと思います。

 

それにしても「女衒」なんて、時代劇で聞いていた言葉をこの21世紀にまた聞くとは、人間の思いつく事ってほんと、進歩しないんですね。

 

TVで汚い言葉遣いの芸能人が起用されるようになってから、たとえ番組の企画が面白そうでも見なくなって10年以上になります。

TVがオワコンと言われるのは、企画がつまらないという以前に、言葉遣いや立ち居振る舞いが下品なタレントの多用が一因ではないでしようか?

 

 

 

 

 

今日もお付き合いいただき、ありがとうございました。