先週、「100分de名著」(NHK)の小泉八雲「日本の面影」の回が再放送されたようで、放送は観逃してしまったが、NHK ONEで全4回をまとめて観ることができた。本放送はちょうど10年前、2015年のようである。もちろん、「ばけばけ」に合わせた再放送だろうが、10年前にこの放送を知っていても私は観なかったかもしれない。「ばけばけ」を観ているからこの放送を観たのだ。
いや、もうちょっと正確に言うと、先日、このブログに、山田太一脚本の「日本の面影」というドラマ(1984年放送・第1話のみ)を放送ライブラリーで観てきたことを書いたが、このドラマを観てみたくなったきっかけが「ばけばけ」なのは間違いないが、山田太一の「日本の面影」を観たことで、私は小泉八雲とその著書「日本の面影」にようやく興味を惹かれるようになった。私の興味は、「ばけばけ」→山田太一脚本ドラマ「日本の面影」→小泉八雲「日本の面影」という順序なのであって、「ばけばけ」からダイレクトに小泉八雲「日本の面影」にたどりつけたわけではなかった。
明治の時代、アメリカは科学と合理主義にあふれていたが、その科学と合理主義に対する疑いが、小泉八雲(ハーン)を日本への興味に向かわせた。私は小泉八雲については無知だったものだから、1984年のこのドラマからその時代背景を初めて理解したのだが、「ばけばけ」を観ているだけではそこがわからなかった。「ばけばけ」というドラマは史実とは無関係な場面のほうが面白く、印象に残ってしまうという困ったところがある。
「100分de名著」では、「日本の面影」の冒頭に、この本の趣旨が大きく四つに分けて述べられているという解説がされていた(解説者は「日本の面影」の訳を手掛けている池田雅之。)。ひとつ目は西洋を追いかける日本の知識人に対する批判、ふたつ目は日本の本当の良さは庶民のなかにあるということ、三つ目は人間は事実に依存して生きるよりも幻想や想像力に頼る生きものであるということ、四つ目は西洋の近代文明への批判。
奇しくも、番組最後に伊集院光が、小泉八雲(ハーン)が日本に初めてやってきたときと同じくらいに日本のことがわからなくなっているということを言っていたが、もしかすると、西洋化を目指した明治の日本人よりも現代の日本人のほうが小泉八雲にシンパシーを感じる部分がおそらくある、いや、私自身がそう感じているのだが、そうであれば、小泉八雲はマルチアイデンティティのひとであったということにも注意しなければならない。八雲(ハーン)は幼少期からさまざまな土地を転々とし、いろんな文化に接していたため、自分の居場所が見つからなかったという解説が「100分de名著」のなかでもあった。1984年のドラマでは混血の女性に惹かれる場面もあり、小泉八雲が日本だけを特別視していたように解釈するとどうやらちょっと違うのではないだろうか。まあ、ここはちゃんと勉強しないとわからないんだけど、「ばけばけ」が終わる3月までにはなんとか、ひまを見つけて「日本の面影」を読んでみたいと思っている。





