野田クリスタルのトークショーを観るために京浜急行の弘明寺まで行ってきた。このトークショーの開催を私が知ったのは年末に放送された「アド街ック天国」の弘明寺の回でだったが、私はそれ以前に、2024年6月、弘明寺かんのん通り商店街のふるさと大使に野田クリスタルが就任した就任式も見物に行っている。野田クリスタルが弘明寺の出身だということをそれまで知らなかったのだが、私が生まれ育ったところも京浜急行の沿線だったから、弘明寺駅で降りることこそあまりなかったが、子どものころからなじみのある駅名ではあった。弘明寺の人間だとわかれば、単純なもので、野田クリスタルに親近感が湧いてしまったのだが、ひさしぶりに弘明寺に行ってみたいという気持ちにもなったのだ。

就任式のときにもトークショーがあり、そのあとには野田クリスタルが神輿とともに商店街を練り歩くパレードがあったのだが、野田は神輿の担ぎ手にも加わり、威勢のいい掛け声とともにわっさわっさと揺れ動いてみせる。オーディエンスのグータッチにも応じ、街のひとびととじかに触れ合う野田のサービス精神には大いに好感をもった。タレントがちょっとあいさつして終わりというようなものではなかったのだ。なにより、商店街が純粋に盛りあがっているさまをとても感じられた。


今回のトークショーはその就任から1周年を記念したイベントということである(細かいことをいえば、1年半が経っている。)。会場が変更になったという告知を事前に目にしていて、当初の予定では就任式と同じ、商店街の真ん中あたりにある観音橋という橋の上だったが、それが商店街を抜けた先にある駐車場に変更になっていた。問い合わせが多かったのだろうか、想定よりもギャラリーがたくさん集まりそうなのかなとは思ったが、会場の駐車場に着いてみると、すでに駐車場を埋め尽くすほどのギャラリーがいる。この時点でもう、ステージからはかなり離れた後方で観ることになったが、私が駐車場に入った数分後には入場規制ということになり、駐車場の入り口は閉められてしまった。いやほんと、電車に1本乗り損ねたりでもしていたらたぶん入れなかった。入れてほっとする。その後、警備のスタッフたちが歩道には立ち止まらないように案内している声が聞こえていたが、ふとふり返ると、車道を挟んだ向こう側の歩道にギャラリーがびっしりと並んでいるのが見えるので驚いた。向こう側はスタッフはノータッチなのだ。それにしたって、車道の向こうからステージが見えるのかと思うけれども。

トークショーが始まる14時になると、野田クリスタルがどこに待機しているのかがわからなかったが、野田は観客と同じ駐車場の入り口から入ってくるのだった。われわれ後方のギャラリーも至近距離で見ることができた。野田はいつもの衣裳ではなく、コートを着ていた。端っこに作られた通路を通り、ステージに向かっていく。ステージには野田ともうひとり司会の女性がいて、トークショーではこのひとが聞き役になった。ところが、音響がすこぶる悪い。後ろのほうでは言葉がかなり聴きとりづらかった。急に会場を変えたからしかたがないのかもしれないなと、まあ、ただの商店街のイベントだったらそんなふうに思うところだが、吉本も関わっているイベントにしてはややお粗末だ。

トークショーは30分ほど、野田は井土ヶ谷の郵便局で働いていた時代の話や、「アド街ック天国」で紹介された弘明堂書店に関する都市伝説などを話していた。そのあとには抽選会があり、開催期間中に商店街で千円以上の買いものをしたお客さんに応募資格があったのだが、そのなかから抽選で選ばれた2名に野田クリスタルとの写真撮影とサイン入りTシャツが当たる。最初に当たった女の子は前のほうで観ていたのだが、2番目に当たった男性は車道の向こうで観ていたようで、名前を呼ばれると急ぎ足で横断歩道を渡ってきた。2名とも、ちゃんとファンのひとが当選したようだ。それから、「アド街」でも紹介していた商店街の現金つかみどり企画に野田も挑戦し、過去最高記録の3万4千円を超えたらお客さんに1万円プレゼントになるというので盛りあがるが、野田がつかんだのはなんとちょうど3万4千円。うそみたいな記録が出たが、超えたらということなので1万円プレゼントはなしになった。最後はジャンケン大会があり、勝ち残った5名には商店街と吉本からプレゼントがあった。トータルで45分ほどのイベントだったか、野田は入場してきた通路を戻り、駐車場の入り口を出ると、停めてあったクルマにすぐに乗った。走り去るクルマの窓から野田は手をふり続けていた。







2025年問題ということが言われて、VHSテープは経年劣化により観ることができなくなると脅されていたのだが、困ったことにうちには山のようにVHSのビデオテープがある。それらはいずれもテレビ番組を録画したもので、その数は宮崎勤も目じゃないほどの量になってしまっているのだが、うちにあるビデオはお笑い番組がほとんどのため、ラベルには「お笑い」や「爆笑」といった文字がたくさん並んでいるからいたって陽気なものだ。そのラベルを眺めているだけでも幸福が訪れるような気がしている(他人がどう思うかは知らない。)。せっかく録りためてきたそれらが、2025年になった途端にすべて観ることができなくなるようなことがあってはたまらない。私にとっては、「私が見た未来」よりもよっぽど恐れおののく予言であった。


そんなわけでということでもないのだが、お笑い好きのお仲間に誘っていただき、ビデオを観る集まりというのを何度かやっている。こんな機会でもなければ、一生死蔵されたままになるだけだからこんなにありがたいことはない。

この日はビートたけしの誕生日前日だったから、私はたけしの番組をまず用意した。1993年の「平成教育テレビ」(通称「27時間テレビ」だが、この年はこういうタイトルだった。)のなかのBIG3のコーナーを録画してあった。計算してみると、タモリ、たけし、逸見政孝がまだ40代、さんまが30代であることに驚くが、この若さであるのに、現在のバラエティと比べてみるとかなりのんびりしたテンポの番組に感じられる。今でも現役ばりばりのさんまが、70歳になった今のほうがテンポが早いというのはこうして観てみなければなかなか気がつけないことだ。

そして、同じビデオにそのあとに録画してあったのは、この「平成教育テレビ」の直近に放送された「北野ファンクラブ」(フジテレビ)だった。「平成教育テレビ」の話をするだろうと思ったから同じビデオに録画したはずだが、この回には立川談志が乱入し、たけし、談志、高田文夫の3人がトークする1時間となった(YouTube にあがっていたこともあるから、観ているひとも多いだろう。)。このとき、同じスタジオで収録された「たけし・所のドラキュラが狙ってる」(TBS)に談志が出演し、そのついでに「北野ファンクラブ」に乱入したという流れも改めてわかる。その「ドラキュラが狙ってる」もこのあとに録画してあった。この回は談志をゲストに迎え、政治を語るというテーマだった。初当選の議員がパネルになって後ろに並べられていたが、そのなかには高市早苗や小池百合子の写真もある。たまたま再生したビデオが現在とリンクするこういう偶然が面白い。この番組はこのあとにはなぜか川島なお美が加わり、ヌード写真集の宣伝をする。川島なお美と談志がウソ発見器にかけられる恒例のコーナーもあった。


それから、これもこのタイミングで観るにはいいだろうと思って用意したのは、「ニュースステーション」に太田光が出演しているビデオだった。再生してみるまで忘れていたが、「最後の晩餐」のコーナーに太田が出演し、久米宏と対談している。自分のメモによると2000年の放送、太田は35歳、久米宏も50代だったのか。外国人の水着美女たちが遊ぶプールサイドで対談をするという謎の演出がされている。太田と久米宏が漫才をする場面もあり、そのネタは「GAHAHAキング」10週目の爆笑問題の漫才をアレンジしたものだった。「最後の晩餐」のコーナーにふさわしい、死をテーマにした漫才だった。


そのようなビデオをこの日は9時間ぐらい観ていて、そのすべてについてはとてもじゃないが書ききれないのだが、しかし、2025年を過ぎてもなお、幸いなことにすべてのビデオが無事に再生できたことだけはみなさんにお知らせしておきたい。どうせ再生できないと思って処分するにはまだ早いということなのです。

SNSよりも前から人間は同じように馬鹿だった、というような意見を目にしたことがあるのだが、そんなことはわかっている。SNSの時代になり、なにがひどくなったかというと、馬鹿が伝染するようになったからなのである。馬鹿が拡散され、みんなつぎつぎに馬鹿に感染していく。コロナを体験したわれわれ人類にはイメージできるだろう。自分だけは大丈夫と思っていてもひとは馬鹿になっていくのだ。

かといって、SNSを完全に手放すのは現実的には難しいかもしれない。ならば、なるべく感染しない工夫をするということになる。私はエックスはもう使わなくなり、インスタとスレッズを使っているのだが、エックスよりもインスタやスレッズのほうがいいと思えるのは、(今のところはだが)どうやら感染しにくい仕組みになっているからである。エックスよりもスレッズのほうが民度が高いとか、あるいは、スレッズだって民度が低いとかいう声を目にすることもあるのだが、民度の問題ではない、仕組みの問題だろう。そういう意味ではブログはより安全である。私はコメントを受け付けない設定にしてあるから、感染経路は完全に断っている。(馬鹿に伝染されないようにしてるのか、それとも、馬鹿を伝染さないようにしてるんだかわかりませんが。)


なぜこんなことを唐突に書き始めたかというと、私が年末年始のテレビを観るのに忙しくしているうちに、どういうわけだか選挙ということになったようだからである。そうなるとSNSが荒れるのは目に見えている。というか、もう荒れている。高市政権になってからずっと荒れているような気もする。このブログに以前にも書いたかもしれないが、ネット選挙の時代になってからというもの、はっきりと選挙は異常なものになった。オールドメディアに不信感をもっている連中がそれ以上に信用ならない情報をなぜ信用するのか。

私は、選挙は人間を見るのが基本だと思っているから、街頭演説はなるべく立ち止まって聴くようにする、そして、テレビの政見放送を観るということを選挙のたびにしている。きちんと判断しようと思ったら、そのくらいの手間は必要なのである。特別な知識はあるに越したことはないが、それよりも人間を見る目を養うほうがよっぽど大事だろう。それはどんな立場の人間であってもそうだ。いろんな立場の人間の投票によって決まるのが選挙だ。それでだめならば、それが選挙の限界ということだ。

「ザ・ベストテン」(TBS)という番組は私が幼少の頃から放送されていて、成長するうちに次第に意識的に観るようになっていった。その頃には司会はもう久米宏ではなく、私は「ザ・ベストテン」を毎週欠かさず観るようになっていたが、これは自分の成長とも関係するからだが、やはり、番組後期のほうがよく記憶している。最終回のときには私は中学生になっていた。

久米宏の降板以降、「ザ・ベストテン」の司会者は何度か入れ替わり、最後の司会者は渡辺正行だった。私は歌番組よりもお笑いに目覚めるほうが少しばかり早かったものだから、「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)はかなり小さい頃から熱心に観るようになっていたのだが、「ひょうきん族」では「ひょうきんベストテン」というパロディのコーナーをやっていて、「ザ・ベストテン」ももちろん観ているのだが、「ひょうきんベストテン」を熱心に観るほうが私は先だった。すると、のちに本家の「ザ・ベストテン」を意識的に観るようになったときに、本家のほうもふざけた演出がかなりあることがわかり、子どもごころにそこにはちょっとした驚きがあったのだが、このニュアンス、おわかりいただけるだろうか。そして、「ひょうきん族」に出ていた渡辺正行が「ザ・ベストテン」の司会になり、「ひょうきんベストテン」の司会をしていた島田紳助は「歌のトップテン」(日本テレビ)の司会になった。「ひょうきん」は猛威をふるっていた。


「ザ・ベストテン」は平成元年に終了し、その直後、TBSは「音楽派トゥギャザー」という新しい音楽番組を始めた。司会は黒柳徹子と高田純次だった。「ザ・ベストテン」は夜21時台の番組だったが、「音楽派トゥギャザー」は22時台に始まる。つまり、「ニュースステーション」(テレビ朝日)の裏番組なのである。たしか、「音楽派トゥギャザー」には「ニュースステーション」のパロディで始まった回があったはずで、「ニュースステーション」とそっくりのセットをわざわざ作り、松尾貴史が久米宏のものまねをしていたことを覚えている。ウィキペディアにあたると、「音楽派トゥギャザー」はわずか2か月の短命番組に終わっている。


「ザ・ベストテン」を熱心に観るようになってからは、過去の名場面として久米宏のすがたはことあるごとに観ていたはずだが、「ニュースステーション」に専念するために「ザ・ベストテン」を降板したという事情を私が知るのはずいぶんあとになってからだ。詳細は省くが、私は小学生の頃に「ニュースステーション」の久米宏の席に座ったことがある。それがきっかけだったということになるのだろうか、私は小学生の頃から「ニュースステーション」を毎日観るようになっていた。

久米宏の訃報があった日の夜の「報道ステーション」は冒頭から40分にわたり久米宏を追悼し、そのあとのスポーツコーナーでも久米宏の名場面を放送した。さすが、大充実の内容だった。子どもだった私には、巨人が優勝して丸刈りになったときなんかはすごく面白かったのだけど、こうして改めて観ると、政治家が出演した場面のダイジェストなどは大変スリリングで釘づけになってしまう。あるいは、「最後の晩餐」のコーナーのゲストに迎えた当時85歳の森繁久彌に、「いつごろ死にそうですか?」と質問しているのにも仰天する。そしてなにより、最終回のあいさつからビールを取り出して飲むまでのじつに見事なことといったら、テレビの時代の千両役者と言いたくなるほどだ。

同日の「news23」(TBS)も久米宏の訃報をトップで扱い、こちらでは小川彩佳が黒柳徹子にインタビューしていた。もちろん、「ザ・ベストテン」を始め、局アナ時代の映像がいくつも流される。筑紫哲也の時代にはなにかと比較されていた「news23」だが、「ニュースステーション」が最終回を迎えたその日には「news23」では筑紫哲也がそれについて語っていた。それらを観たこの日のコメンテーターの斎藤幸平は、この直前に放送されていた「報道ステーション」の追悼特集も観ていたようで、われわれもこの進行台本を投げるような感じじゃないといけないといって、手元の進行台本を実際にまるめて放り投げてみせた。

私は三十年来の落語ファンだが、都内に住んでいるわけではないから寄席に行くことはあまりない。おまけに、私の落語の入り口は立川談志だった。三十年前は立川談志の影響力は絶大だったから、こういう落語ファンは珍しくなかったと思うが、自分のような落語ファンはどうも年々少数派になっているのではという気がしている。


立川流の一門会を観るために今年も表参道GROUND まで行ってきた。今年もというからには去年も行ってきたのだが、この表参道での一門会が始まったのは去年の1月からで、その1回目に行って以来、1年ぶりに行ってきたということになる。落語ファンには常識だが、立川流は都内に4軒あるいわゆる寄席(落語定席)には出演しない。その替わりに都内各地で独自の寄席を展開しているのだが、そのひとつに去年からこの表参道の会場が加わったというわけである。

しかし、これは立川流ならではともいえることだが、ここはライブハウスだからほかの会場とはちょっと性質が違う。寄席の雰囲気を楽しみたい落語ファンには不満に感じられるかもしれない。性質が違うのはそれだけでなく、この会場を運営しているのは吉田正樹事務所で、ワタナベエンターテインメントと関係が深く、ワタナベのお笑いライブが行われている会場でもあるから、この立川流寄席にもワタナベの芸人が毎回2組出演することになっている。だから、立川流の会にワタナベの芸人が出してもらっているかのようなかたちだが、彼らにとってのほうがじつは本拠地で、彼らの本拠地を立川流が借りているというのが正確なのだが、観客たちにもその感覚はあまり共有されていないという感じがする。


ややネガティブなことを書いたかもしれないが、なぜそんなことを書くのかというと、ちょっとどうかと思うくらいに客の入りがよくないのだ。この日は私は昼の部と夜の部の両方を観たが、昼の部のトリを談春、夜の部のトリを志らくが務め、ワタナベからは、ラパルフェ、こたけ正義感、豆鉄砲という売れっ子たちが出ている。にも関わらず、空席がかなりあった。別に会場がだだっ広いわけではなく、料金も安い(予約3000円)のに、なぜなのだろうかと首をひねるばかりである。

ある出演者がマクラで、平日昼間なのにこれだけのお客さんに入っていただき、これもすべて談春師匠のおかげですというようなことを言っていて、空席があるのに客が多いと思っていることにびっくりしたのだが(というか、可笑しくて笑ってしまった。)、客が少ないことにあまりにも慣れすぎていて、これではまずいんじゃないだろうか。いや、客が少ない寄席の風情というのも私は好きなのだが、しかし、この会場に関しては風情もへったくれもない。満席になればちゃんと盛りあがるだろうし、熱を目指すべき会場だと思うんだけど、もうちょっとなにか戦略は立てられないものかともどかしい気持ちでいっぱいになった。


(出演者と演目は以下の画像のとおりです。)





「GAHAHAキング」の思い出を書く前に、90年代のあまり知られていない勝ち抜き番組にふたつ触れておきたい。

ひとつは「ナベさんミッちゃんのまねまね天国!」(テレビ東京)という番組で、渡辺正行と清水ミチコが司会をしていた。ウィキペディアにあたると、1991年4月から半年間放送されていたことがわかるが、ウィキペディアにある記述はどうも頼りないものだ。この番組からは、吹越満、浅草キッド、電撃ネットワーク、バカルディ(現・さまぁ~ず)がチャンピオンになっているのだが、私の記憶が正しければ、最終回に5週目を迎えたせーじ・けーすけも温情的にチャンピオンになったのではなかっただろうか(この番組は5週勝ち抜きでチャンピオンになるから、半年間の放送のわりにはチャンピオンが多く産まれている。)。審査員には、高田文夫、ポール牧、きたろう、ちはるらがいたことを覚えている。


もうひとつは「爆笑王誕生」(日本テレビ)という深夜番組だが、これはウィキペディアにも項目がないから記憶しか頼るものがないのだが、きたろうが司会をしていて、アシスタントが誰かいたはずだが誰だかはわからない。この番組からは、ホンジャマカとビシバシステム(住田隆&西田康人)が5週勝ち抜きチャンピオンになっている。この2組の記憶は確かなのだが、この番組にももしかしたら温情的なチャンピオンがいたような気もする(KIDSというトリオ?)。やはり、短命に終わった番組だった。審査方法は明らかにされておらず、勝ち抜いたかどうかだけが発表されていたのではなかっただろうか(かなりあやふやな記憶です。)。


80年代の勝ち抜き番組にここで改めて説明を加えておくと、「お笑いスター誕生!!」と「ザ・テレビ演芸」のチャンピオンの条件は10週勝ち抜きである。「お笑いスター誕生!!」の後期はトーナメント形式になり、私はこの時代のほうをよく記憶しているのだが、トーナメントならば4回の対戦を勝ち抜けばチャンピオンということである。「笑ってる場合ですよ!」に関しては私は観たことがなく、なぜかといえば単純な話、平日の昼間の放送なので、その時間は学校に通っていたからだ。これはウィキペディアに頼るが、5日間勝ち抜けばチャンピオンになっていたということだ。

改めて説明したのはネタの本数に注意を向けてもらいたかったからだが、10週勝ち抜き形式の場合は、当たり前のようだが、10本の勝てるネタを用意しなければならないということである。「M-1」の競争率はすさまじいものだが、それでも、10本のネタを作る必要はないし、なんなら、すべて違うネタにしなくてもいい。ネタ作りの労力においては、10週勝ち抜き形式のほうが過酷だろうという面はある。


「GAHAHAキング」からは、爆笑問題、フォークダンスDE成子坂、ますだおかだという3組のチャンピオンが産まれ、いずれも10週勝ち抜いたわけだが、ストレートに10週勝ち抜いたのは爆笑問題のみ、フォークダンスDE成子坂は最初の挑戦では2週目で落とされ、二度目の挑戦で10週目までたどりつくが、10週目のネタが保留扱いになり、11週目でようやくチャンピオンとして認められたというきびしい審査だった。

ますだおかだも再挑戦でチャンピオンになるが、これはリアルタイムで観ていた私の個人的な感想だが、フォークダンスDE成子坂がきびしい審査を経た末のチャンピオンだったぶん、ますだおかだがチャンピオンになったときの審査はちょっと甘いような気がしてしまった。しかし、その後はすぐに、この3組だけがチャンピオンであることがどれだけこの番組の価値を高めていることかと思うようになった。

栃木県の高校のいじめ動画が拡散された一件が「サンデージャポン」(TBS)で扱われ、そのVTRのなかにスマイリーキクチが登場した。よく知られるように、スマイリーキクチはある凶悪事件の犯人のひとりだったというデマを流されたことがあって、その中傷被害は今でも続いているという。スマイリーキクチは加害者に対する私刑についてコメントしたのだが、そのVTR明けに太田光は、スマイリーキクチが「NIGHT SHIFT」というコンビの時代に「GAHAHAキング」という番組で5週まで勝ち抜いたという説明をした(言うまでもなく、ボケである。)。


同じ日の「爆笑問題の日曜サンデー」(TBSラジオ)には、ますだおかだがゲストとして出演していた。爆笑問題とますだおかだの関係もやはり「GAHAHAキング」から始まる。正式名称を「GAHAHAキング 爆笑王決定戦」というこの番組は、1993年10月からテレビ朝日で放送された。ウィキペディアにあたると、たった半年間しか放送されていなかったことに驚くのだが、その後、「GAHAHA王国」という番組にリニューアルされ、1995年9月まで続くことになる。いや、それにしたってたった2年だ。たった2年のわりには、強い印象を残している番組である。(「GAHAHAキング」は私はVHSですべて録画してあって、それを確認すればいろいろ詳しいことも正確にわかるのだが、とりあえず、ここでは記憶を頼りに書きます。)


現在は賞レース全盛時代だが、それ以前(というのは「M-1」が始まる2000年以前だが)は、若手お笑い芸人の登竜門というと、勝ち抜き番組が主流だった。どこにルーツがあるのかはわからないが、80年代には代表的な勝ち抜き番組が三つあり、「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)、「ザ・テレビ演芸」(テレビ朝日)と、もうひとつは「笑ってる場合ですよ!」(フジテレビ)のなかの「お笑い君こそスターだ!」というコーナーがそれだ。私にとっては幼少期だからこれらの番組について詳細を語るのは難しいが、これら3番組すべてに出演しているのはダウンタウンとブッチャーブラザーズだけだと言われている。そもそも、「若手芸人」という概念が漫才ブーム以降のものではないだろうか。若手芸人たちがネタで競うという今にも続く流れは、この時代から本格的に始まったといっていいのではないかと思う。(70年代の「ぎんざNOW!」のような素人参加番組の系譜もあるとは思うが、それをたどるのはまた別の機会にします。)

その後の時代になると、まず思い出されるのは「LIVE笑ME!!」(日本テレビ)という番組だが、これもウィキペディアにあたってみると、たった1年弱しか放送されていなかった。番組が始まったのは1989年11月、つまり、平成元年の終わりからだが、世の中は平成の新しい時代が始まったという空気が強かったはずだ。正確なことをいえば、この番組は勝ち抜き制ではなく、出場するごとに順位によりポイントがつき、それが10ポイント獲得されるとチャンピオンになるというルールだった。この番組からは、SET隊、爆笑問題、テンション、ホンジャマカ、Z-BEAMという5組がチャンピオンになっている。だから、ダウンタウンやウンナンとはわずかな芸歴の差なのだが、爆笑問題は平成の若手芸人という印象になる。


「GAHAHAキング」の思い出を書くつもりだったのだが、なかなか「GAHAHAキング」にたどりつかなくなってしまった。この話は続く。

 

 

新年に寒川神社に獅子舞を観に行ってきたことはこのブログに書いたが、その情報を探している過程で、ほかにも興味をもつ民俗芸能の行事をいろいろと見つけた。こうなるともう、芋づる式に情報を知ることになっていくのである。さすがに予算の問題もあるから遠方はためらうが、私の住む神奈川県内に絞ってみてもじつにさまざまな民俗芸能が存在する。古くから存在しているはずのそれらが、興味をもった途端に初めて視界に現れてくるのだから不思議なものだ。

 

小田急線の新松田という駅のすぐそばに、JR御殿場線の松田という駅がある。ここで乗り換え、御殿場線の山北まで行ってきた。御殿場線に乗るのは人生二度目ではないかと思うが、山北という駅で降りるのは初めてのことだ。もうずいぶん前のことになるかとは思うが、その一度だけ御殿場線に乗ったときに電車の窓から見える富士山の大きさに驚いた記憶があったから、山北から見える富士山にも期待していたのだが、山北からは富士山は見えなかった。むしろ、松田からはきれいに富士山が見えていたのだが、地形がどうなっているのか、山北は富士山が隠されるようにほかの山々に囲まれているようだ。


この日は山北の道祖神祭というものがあり、余裕をもって到着するはずだったが、電車が遅延していて、着いたときにはもう始まる時間になっていた。駅の改札を出ると、巡行する花車が駅前に並んでいる。山北町のホームページから案内を確認してきたのだが、13時半から駅前で出発式ということになっているから、もう始まってしまうかと思ったら意外とのんびりしたもので、花車が並ぶ前に子どもたちがしゃがんで太鼓を演奏するスタンバイをしているのだが、神主さんが順番にお祓いをするのになかなか時間がかかっていた。いよいよ子どもたちの太鼓の演奏が始まり、これが「川村囃子」と呼ばれるもので、町指定の無形文化財になっている(正確な情報を知りたいかたは山北町のホームページをご参照願います。)。ギャラリーはさほど多いわけではなく、大半はこの町のひとびとだろう。私のようなよそからわざわざやってきた人間はほとんどいなかったのではないだろうか。それから巡行開始まではまた少し時間が空き、太鼓を叩きたい子に自由に体験してもらったりしていたようだが、寒いから、私は駅前の観光案内所を覗いたりしていた。観光案内所の2階には鉄道資料館があって、休憩所にもなっている。1階の壁には3時のヒロインの福田麻貴のサインが飾ってあった(「婚活1000本ノック」の撮影があったようだ。)。

14時半から花車と神輿の巡行が始まる。神輿が先陣を切り、4台の花車がそれに続く。この巡行ルートもあらかじめ確認しておいたのだが、山北駅周辺を2時間かけてまわり、また駅前に戻ってくる。スタートからしばらくは追いかけていくものの、動き出してから気がついたが、ギャラリーかと思っていたみなさんもこの花車の綱を引っぱって参加するかたがたで、ただの見物客は本当にわずかしかいない。よその人間がずっとついていくのもさすがに変だろうと思い、ほどのよいところでルートからはいったん離れることにした。


山北駅周辺をぶらぶらするにも、今日は寒くてたまらない。生涯学習センターを見つけ、そこで少し休憩し、駅前に戻り、駅前のお店で昼食をとった(いいお店だった。)。もっと時間をもてあましてしまうかと思っていたが、退屈せず、意外と簡単に時間がつぶれる。16時35分から始まる解散式にそなえ、少し早めに駅前で待っているとお囃子が聴こえ、花車と神輿が順番に戻ってくる。すると、そこに路線バスも同時に入ってきて、この時間にここに集まるスケジュールに決まっているのに時間をずらせなかったのかと思うが、交通誘導の警官たちが写真撮影に気をとられていたわれわれにややぴりつく態度を見せた。

解散式は出発時と同様、子どもたちの「川村囃子」がまたあり、どうなったら終わりなのかを知らなかったが、この演奏が終わったら解散となった。しかし、解散ではあるけれども、花車と神輿はここからそれぞれの場所に帰らなければならない。巡行と同じように、また1台ずつ駅前から旅立っていき、やがて駅前には誰もいなくなった。






松本人志を始め、テレビのなかの幾人かの看板タレントの退場が続いたこの2年間で、ウッチャンナンチャンの存在感は相対的に増しているように思われる。以前、このブログにも、ダウンタウンと比べたときのウンナンの過小評価については書いた記憶がある。もちろん、ダウンタウンの革新性はなにがあっても揺るぎようがないものだが、われわれはウンナンについてあまりにも考えてこなかったのではないか。(こうした書きかたが大げさすぎることはわかっているが、これは過小評価に対するレジスタンスなのだからしかたがない。)


この年末年始には「ザ・イロモネア」「ウンナンの気分は上々。」という大きな復活特番がふたつあった。「ザ・イロモネア」は昨年2月に8年ぶりに復活し、同じ年の年末が今回というわけである。この2回はどちらも3時間半の番組だったが、事前番組に「ザ・ゴールドラッシュ イロモネアへの道」という若手の予選会もあり、私のようなすべて観ようという人間にとってはなかなか悩ましいボリュームになっている。しかし、それだけの時間を観たらそのぶんだけ、なにかしら考えることはあるもので、まず、この番組は笑いのゲーム化に成功しているということが指摘できるだろう。賞レースさながらの緊張感はありながら、この番組には遊戯性がある。そこは競技化された賞レースとは異なり、運に左右される面白さを楽しむ設計になっている。ネットニュースによると、選ばれた観客に対する誹謗中傷もあったようだが、そもそもが公平性を目指したルールではないのである。

この番組の特徴をもうひとつあげるとするならば、エレガントであることだろう。お笑いの賞レースのなかで「M-1」だけがなせ突出した権威を獲得しているのかといえば、やはり、エレガントだからだと考えられる(これは扮装が必要なコントでは難しく、漫才だからこそエレガントを保っていられるという都合もある。)。たとえば、松本人志が産み出した「ドキュメンタル」や、あるいは、「ガキの使いやあらへんで!」でのいくつかの企画、または、松本だけを悪者にしてはいけないが、「ゴッドタン」などの番組で行われるなりふりかまわぬ笑わせ合いとは、「イロモネア」という場は明らかに違うのだ(悪く言っているようですが、私はそれらの番組もよく観てます。)。これは特に松本が好む、芸人同士が笑わせ合うという構図、とは違って、「イロモネア」が一般の観客を相手にしたゲームであることも関係する。こうなると、芸の基本は「きれいごと」なのである。

もうひとつ、「イロモネア」では内村の挑戦にも触れなければならない。昨年、内村がマセキの若手ライブに出演したことがお笑い界では話題になっていたが、もしかするとこの準備だったのかもと推測したくなる。今回、内村はピンで挑戦した理由を、前回の劇団ひとりを観てかっこよかったからだと答えていた。たったひとりで観客と対峙する美学が、やはり、内村のなかにもあるということだ(くり返すようだが、芸人同士が笑わせ合う構図を好むのとはこれは正反対の美学だろう。)。


「大きな復活特番がふたつあった」と先に書いたが、「ウンナンの気分は上々。」は1時間のコンパクトな特番だった。14年ぶりの復活にしては控えめな特番だったという気もするが、あるいは逆に、この番組らしいという気もする。さまぁ~ずとくりぃむしちゅーを改名させた番組としても知られるが、この番組のよさは日常性にこそあった。(今回は内村たちのサーフィン旅だけでおおむね終わってしまったが、いっぽうの南原は、「ザ・ゴールドラッシュ」のなかで柳沢慎吾とロケ企画をやっていたから、これは両方観ていた意味があった。)

もうあっという間に古い話題になりつつあるが、年末年始に観たテレビはまだまだたくさんあるので、それらについてこれからもたびたび触れていくことになるかもしれません。


新年、私がいちばん笑わされた番組は「志らく・伯山の言いたい放だい元日SP」(TOKYO MX)だった。この番組もすっかり恒例になり、4年連続で放送されている。かつて、「談志・陳平の言いたい放だい」という番組があったことももう説明しなければならないかもしれないが、立川談志、野末陳平によるこの番組の復活特番という位置付けで始まったのがこの番組である。タイトルのとおり、談志、陳平が時事問題について言いたい放題にしゃべりまくるという番組で、復活特番もそのスタイルを踏まえたものだが、今年はすっかり、伯山が志らくに言いたい放題なことを言う番組になっていた。

元日の放送ではあるが、収録は年末だったのだろう。志らくはしきりに、保守のコメンテーターのイメージがつきすぎてしまったことを反省し、今年(2026年)は「全身落語家」に復活することを宣言していた。炎上すると落語家として色がつくことにようやく気がついた様子の志らくを伯山が無遠慮に面白がる。志らくが「保守の星」になってしまったとくり返していると、伯山が「ちょっと待ってください、保守の星になったんですか?」 志らく「東の志らく、西のほんこんて言われてるから。(笑)」 伯山はこの番組に、町山智浩や能町みね子を呼ぼうと提案する。


「笑点」の正月特番では、春風亭昇太と立川志の輔が昇太の地元清水を一緒にめぐるロケ企画が新鮮で楽しかった。大喜利では座布団10枚獲得のご褒美というのがあるのだが、昇太は司会者だから、司会10年目のご褒美としてこの企画が行われた。志の輔は昇太よりも歳上だが、入門は昇太のほうがわずかに早く、このふたりが若手時代には一緒に旅行する仲だったことは少々古い落語ファンにはよく知られることだ(その時代のプライベート旅行の映像も番組では流された。)。今や、志の輔が「笑点」に出ることも珍しいとは思うが、弟子の晴の輔が大喜利メンバーになったからその縁で引き受けたということでもあるのかもしれない。

清水エスパルスのグラウンドでは、サッカーゴールにつけられた「大吉」のパネルをシュートで落とすというゲームが行われた。ユニフォームに着替えた志の輔も珍しいし、失敗してもう1球増やしてもおうと土下座する志の輔もなかなか観ることはできないだろう。これも仲のいい昇太と一緒だからこそ実現したすがただ。