当ブログ、去年の7月1日から始めてちょうど1年が経ちました。

 

当初の予定ではSNSの代用品ぐらいのことを書くつもりで始めたブログでした。なので、タイトルも適当、プロフィール画像も適当に選び、いかにもそこらへんのおじさんが適当にやってる感じでいいやと思っていたわけですが、しかし、どういうわけだかだんだんけっこうしっかり書くようになってしまって(なんでこんなことになってしまったんだろうか?)、このプロフィール画像では単にだめな感じにしか見えないなと前々から思っていたのでこの機に変えることにします。

このブログに合うイメージのアイコンをAIに作ってもらいました。タイトルは引き続き、「植草東日記」でやっていくことにします。(タイトルがシャレになってることはAIに気がついてもらえなかった。)

 

先日、神奈川近代文学館の「吉屋信子展」で行われた柚木麻子の講演を聴いたのだが、そのなかで、柚木麻子が吉屋信子は強力なハブとなる人物だったと話していて、時代が変わるときにはハブとなる人物が現れるというような話だったと思うのだが(正確に記憶していないので、私の解釈が入っているかもしれない。)、そのような人物をほかにも数人あげていたなかのひとりに大山捨松の名があった。大山捨松といえば、現在放送中の「風、薫る」で、多部未華子が演じている人物である。養成所の卒業生たちが帝都医大病院で勤務できるよう、院長に働きかけられないかというので、バーンズ先生が大山捨松に相談に行く場面があったが、なるほど、ここにはまさにハブとなる捨松が感じられる。(柚木麻子はほかに小林カツ代の名もあげていて、ウィキペディアを見るとたしかに面白い人物である。)

 

ところで、ぜんぜん別の話をするようだが、「週刊新潮」のタブレット純の連載コラムを読むと、高田文夫が呼び水となった食事会の場で野末陳平と初対面したことが書かれていた。「ビバリー昼ズ」(ニッポン放送)のゲストが泉麻人だったときに、泉麻人が野末陳平に興味があるという話をすると、今度、タブレット純に会わせようとしているのだと高田文夫が話していた。それがさっそく実現されたということだが、タブレット純と野末陳平を会わせたり、ロバート秋山と片岡鶴太郎を会わせたりしている高田文夫も、そういう意味ではハブとなる人物に違いない。

そして、どうやら私はそのようなハブとなる人物に興味があるのだが、同時代に接していればその存在の大きさは当たり前のようにわかるものの、のちの時代になってみると、そうだったのかということでしかわからなくなる。そんな気がするのだが、しかし、その人物がいなければ成り立たないことがたくさんある。プラットフォームだけがあちこちにある時代だからこそ、ハブとなる人物の重要性を私はますます感じているのかもしれない。


野末陳平は生きている

 

 
有楽町のよみうりホールで開催された「文夫の部屋」というイベントに行ってきた。高田文夫の78歳を祝う生誕祭なのだが、去年の7月にはやはりこのよみうりホールで喜寿を祝うイベントが開催され、そこで片岡鶴太郎の漫談を目撃したことはこのブログにも書いた。この生誕祭は毎年恒例になるんだろうか。今回はグッズ販売があるということで、開演は18時だが、高田文夫のアクリルスタンドを手に入れたいと思っていた私はだいぶ早く会場に向かった。なにしろ、グッズ販売だけはチケットがなくても購入可、15時半から16時半の販売だったのだが、16時前に到着すると、まったく誰も並んでおらず、なんにもあせることはなかった。お目当ての高田先生のアクスタは無事に購入、ついでに、「ラジオビバリー昼ズ」35周年のメモリアルブックも売っていたからこれも一緒に買ってしまう。2年前、国際フォーラムで開催された番組35周年イベントには私は行くことができなかったのだ。(アクスタはのちに売り切れたから、この時間に買っておいてよかった。)
 
この日のプログラムをざっと説明しておくと、開演するとまずは高田文夫先生と松村邦洋が登場する。「オープンハウス!」というギャグをふたりで合わせ(オープンハウスはこのイベントのスポンサー)、第一部の出演者たち、U字工事、ナイツ、爆笑問題がさっそく勢ぞろいする。前半は演芸会になっていて、U字工事、ナイツ、松村邦洋、爆笑問題が順に漫才やものまね漫談を披露した。ナイツ、爆笑問題はそれぞれ、高田文夫について語るネタをきちんと用意していた。休憩を挟み、第二部はゲストを迎えたトークショーである。法被を着た高田先生が再び登場、まずはロバート秋山が呼ばれ、「クリエイターズ・ファイル」の写真がスクリーンに映し出されたりなどする。そこにあとから加わるのが片岡鶴太郎。去年はここで貴重な漫談を披露したが、今年はトークのみの出演だ。鶴太郎と秋山はなんの接点もない初対面。去年は鶴太郎が観客を立たせ、みんなでヨガをやる展開があったが、今年も同じ展開になり、鶴太郎が怪しい教祖のように観客を立ちあがらせると、秋山がすかさず怪しい助手の役をやってみせるのがさすがだった。終盤にはさらに太田光も加わり、4人のトークになった。秋山と高田先生の関係性の薄さを太田は何度もツッコんでいた(秋山の出演はオープンハウスとの関係もあるのだろうか?)。秋山はじつは鶴太郎の「体ものまね」を仕込んでいて、トーク中にはそれを見せるタイミングがなく、最後の最後、全員そろったエンディングにいきなり服を脱ぎ始めてそれが披露された。鶴太郎とはまるっきり体型が違う秋山は、からだに影を書き込んであった。

去年はトークのゲストにはイッセー尾形が出演し、鶴太郎とイッセー尾形のこれも珍しい顔合わせになったが、高田文夫生誕祭でありながら、今のところ、鶴太郎と誰を会わせたら面白いかを考えるイベントにもなっている。しかし、誰でもこんなマッチメイクを仕掛けられるわけではなく、やはりそこにはハブとしての高田文夫の存在がしっかりとある。(高田文夫についてはまた改めてこのブログに書かなければならない。)
「ビバリー」35周年のメモリアルブックには、「日芸三賢人」として、太田光、立川志らく、宮藤官九郎の寄稿があり、高田先生からの依頼だからそれぞれじつに熱がこもっている。太田が「あちこちオードリー」に出演したときに話していた「放送=テキ屋」という考えはここに書かれていた。「歩いてる人を呼び止めて、こっちへ振り向かせて、バナナを買ってもらう。俺達がやってることは、あれと同じだからね。要するに、視聴者とかリスナーってのは、通行人なんだよ。(略)俺達がやってるのは、どうやって足を止めさせるかっていう工夫だからね。大事なのはその工夫の先に笑顔があることだよ」 太田はその工夫がおそらく「芸」なのだと解釈する。

 

 片岡鶴太郎の漫談




「耳の穴かっぽじって聞け!」(テレビ朝日)に出演した千原ジュニアが、とろサーモン久保田とウエストランド井口を前に、賞レースの時代ではなかったジュニアからしてみると、そうそうたるひとたちに審査してもらえるのはうらやましい部分もあるということを言っていた。ジュニアの時代にはアイドルや俳優に審査されていたというのだが、千原兄弟がそのようなコンテストに出場していたのはおそらく関西の時代だろうから、関東在住の私は具体的には知らないが、全国ネットの「NHK新人演芸大賞」などを思い出してみても90年代はたしかにそんなもんだったと思う。たとえば、賞レースではないけれどもタレントに審査されるバラエティ番組というのはあって、「爆笑レッドカーペット」や「ボキャブラ天国」、あるいは、ものまね番組の審査員を想像してもらえばいいが、たとえ権威あるコンテストだとしても、ある時代まではおしなべてそれに近いものだったという印象がある。

2001年に始まった「M-1グランプリ」はそのような状況を打破するべく、出場者たちが納得する審査員をそろえることにこだわった。初回こそは青島幸男や鴻上尚史もいるのだが(作家であり、演者でもある。)、芸人による芸人の審査というところに落ち着き、賞レース活況の時代になっていくと他のコンテストもその傾向を追随していくことになる(今ではその傾向はさらに、漫才は漫才師が、コントはコント師が、ピン芸はピン芸人が審査するようになっていて、ちょっと純血主義が進みすぎてやしないかという感じもする。)。

松本人志が「遺書」に書いた藤本義一批判は有名だが(だから、根っこにあるのは私怨なのだが)、その不信感から、芸人が芸人を笑わせるという構図を松本はやたらと好むようになり、その思想が拡大されていった結果に現在があるということでもあるだろう(島田紳助もそれに共鳴していたということだろう。)。


「ラジオビバリー昼ズ」(ニッポン放送)を聴いていたら、東貴博が亡くなったガッツ石松のことを話していたのだが、そういえば、ガッツ石松は東八郎とともに「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)の審査員をやっていた時期があったのだった。これは私も子どもの頃に観ていた記憶があって、私が観ていた「サバイバルシリーズ」の時代は審査員が10人いたが、記憶を頼りに書くと、その10人とは、東八郎、内海好江、桂米丸、牧伸二、京唄子、鳳啓助、近江俊郎、水野晴郎、大山のぶ代、ガッツ石松ではなかったか。

6人はベテラン芸人なのだが、よくわからないのは残りの4人だ。近江俊郎はほかにも「オールスター家族対抗歌合戦」など、なぜかいろんな番組に審査員としてよく出ていたひとで、子どもの頃の私には近江俊郎がどういうひとなのかはまったくわかっていなかった。

ガッツ石松で覚えているのは、岡けん太・ゆう太に必ず10点満点をつけていたことだ。その理由はというと、ガッツ石松の長男次男がけん太・ゆう太と同じ名前だからということだった。

「Michael/マイケル」というマイケル・ジャクソンの伝記映画が大ヒットしているのだが、このタイミングに「週刊プレイボーイ」はマイコーりょうのインタビュー記事を載せていた。マイコーりょうといっても知らないひとも多いだろうか、マイケル・ジャクソンのインパーソネーターとして一時期は「エンタの神様」(日本テレビ)などで活躍していたが、それももう15年以上は前になるのだろう。インパーソネーターという肩書きも日本ではあまりなじみがないものだが、わかりやすく言ってしまえば、「なりきり芸人」ということである。笑いを目的とせず、本人そっくりに再現してみせることがインパーソネーターなのだが、インタビューによると、マイコーりょうはこの路線に限界を感じ、日本のテレビに出るためには「お笑い」を混ぜなければだめだという考えに至ったようだ。「エンタの神様」では「きよしのズンドコ節」や「崖の上のポニョ」をマイケル・ジャクソンで歌うというネタを披露していた。それが笑いとなるのも基本となる高度な再現力があるからこそだが、マイコーりょうは風貌も本人に近づけるよう、体形の維持にも気を遣い、さらに驚くことには、マイケルと同じように鼻を整形しているというのだから徹底している。マイコーが言うには、海外のマイケルのインパーソネーターたちもその多くは整形しているんだそうだ。

 

そもそも、マイコーりょうにはジャニーズ事務所に所属していた時代があったということも私は知らなかったが(ウィキペディアにも載っている)、1980年代初頭に少年隊と一緒にレッスンを受けていたというのだからじつはなかなかのベテランだ。その時代のジャニーズのタレントたちに与えたマイケル・ジャクソンの影響力とは、東山紀之の著書「カワサキ・キッド」(朝日文庫)にはマイケル・ジャクソンの映像を初めて観たときの衝撃が綴られている。

「十三歳の僕を震えさせたのは、マイケル・ジャクソン、その人だった。ジャニーさんがアメリカから取り寄せたビデオを、合宿所のリビングで、トシちゃんたちと見ていたときである。上へ上へと躍動するスレンダーな肢体が目に飛び込んできた。そのあまりのカッコよさに言葉を失った。(略)踊る楽しさが全身からあふれ出ていた。男が踊ることに抵抗があった僕の意識が根底から覆された瞬間である。かつてブルース・リーを見たとたん足を蹴り上げていたように、すぐにマイケルの動きをなぞりたくなった。が、いくらなぞろうとしても、なぜあんな動きができるのかわからない。すでにトシちゃんが擦り切れるほど見ていたビデオをまた何百回と繰り返し見たので、ビデオテープは本当に切れてしまった。」

いっぽう、マイコーりょうのインタビューでは「東山紀之君がマイケルのダンスをコピーするのが本当に上手でね。僕もそれなりにできるほうだったんですけど、それでも僕が驚くレベルでマイケルを再現できていたのは東山君だけでした。」と語られている。

 

マイコーりょうはその後、さまざまなタレントのバックダンサーをやっていた時代があったようだが、そのときにコロッケに出会い、コロッケのラスベガス公演に同行したことが重要な体験になったようだ。マイコーはコロッケの偉大さに気がつき、コロッケのようなものまね芸人になれば、自分の可能性を広げられるのではと考えた。たしかに、コロッケはものまね芸人でありながら、ダンサーの領域にかなり接近しているパフォーマーでもあるから、ダンサーだったマイコーりょうが大いに刺激を得たのも理解できるような気がする。

コロッケは田原俊彦と同世代でもあるが、現在、60代の現役ダンサーがどのくらいいるのかはわからないけれども、そのダンスの水準とステージをこなす量を考えれば、コロッケと田原俊彦は前人未到の地に立つ先頭ランナーと見做して間違いはないだろう。奇しくも、東山紀之は「男が踊ることに抵抗があった」と語っていた、そんな時代にいち早く出現したふたりである。コロッケもかなり早い時期からムーンウォークはやっていたような気がするが、マイケル・ジャクソンからコロッケへの影響をもうひとつ推察すれば、「ブラック・オア・ホワイト」のMVで有名になったモーフィングを、コロッケは自身の顔面の筋肉によって再現してみせることができるという点にある(岩崎宏美の顔から美川憲一の顔に瞬時に変形してみせるように)。これはやはり、ロボット五木ひろしや、あるいは、「ジュラシック・パーク」の恐竜のものまねからもわかるとおり、コロッケはCGの動きを再現することに人力で挑み続けてきた、その端緒となったのはやはりマイケル・ジャクソンだったのだろうと考えられる。

「MUSIC AWARDS JAPAN」が今年もNHKで放送され、いろいろと批判的なことも言われているようだが、とりあえず、私は「紅白」がもうひとつできたような気がして楽しく観ている。各賞は5000名以上の音楽関係者による投票でおおむね決まるようだから、そこに批評性や独自の視点は入りにくいのかもしれないが、これが今の日本の音楽シーンだという見本市にはなっているだろう。それよりも、替わりにこの賞の性質を探すとすれば、プレゼンターたちの顔ぶれはなかなか面白かった。カンヌで最優秀女優賞を受賞した岡本多緒がさっそく登場していたが、やはり、カンヌで「ナギダイアリー」が注目された松たか子、ほかには、「地獄に堕ちるわよ」の戸田恵梨香や、本木雅弘、田中泯、渡辺謙といった国際的に活躍する俳優たちが今年はやけに多く、去年は役所広司が出ていたが、浅田真央や三浦知良といったスポーツ選手や、作品がブッカー賞の候補になったことがある川上未映子など、いずれも海外にアピールできる顔ぶれがここに集められている。今年は都倉俊一とともに豊田章男が登場していた。実業家がこのような場に登場するのも珍しい気がしたが、トヨタグループはこの賞に協賛として関わっている。米津玄師のパフォーマンスのときに、米津が乗るサメライド(サメ型の乗り物)におもいっきり「TOYOTA」と書かれているのも気になったが、NHKで放送されてはいるが、別にNHKが制作している番組ではないからこういうことも起こるというわけか。

 

司会は2年連続で菅田将暉が務め、これも唸らされる人選である。菅田将暉はラジオもこなすくらいだからしゃべれるひとには違いないのだが、司会を菅田将暉にしようとはなかなか思いつかないのではないか。たとえ、ここで菅田将暉が司会をうまく務めあげようとも、ほかの番組で菅田将暉が司会に起用されるとは想像しづらい。だいたい、このようなセレモニー的な司会をする俳優といえば、岡田眞澄か宝田明と相場は決まっているのだが、もう少し譲歩すれば、西田敏行ということになる。菅田将暉のようなタイプの俳優が司会に選ばれることはわが国の歴史においてはなかったことだが、海外のこのようなセレモニーではコメディアンが軽妙に司会をしたりというケースは思い浮かぶ。日本では「コメディアン=お笑い芸人」だと思われてしまうが、菅田将暉のような軽妙な芝居もできる俳優が日本ではそれに相当するのかもしれない。

あるいは「紅白歌合戦」の場合は、最近は有吉弘行が続けているが、その前には大泉洋がやっていて、さらに前になると、ジャニーズのタレントが連続してやっていた時代があった。初期の「紅白」は、男性司会者にかぎれば、高橋圭三や宮田輝といったアナウンサーが長らく担当し、1968年、坂本九が白組の司会に選ばれたのがアナウンサー以外では初めてのようだ。坂本九は2年務め、それからまたアナウンサーが続くのだが、つぎの俳優の司会は1986年の加山雄三まで待たなければならない。加山雄三といえば、少年隊の「仮面舞踏会」を紹介しようとして「仮面ライダー!」と言ってしまった事件はあまりにも有名である(いや、菅田将暉こそ仮面ライダーなのだが、ウィキペディアから菅田将暉の本名が「大将」だと知り、「若大将」とつながった思いがして、私は戦慄している。)。

男性司会者に比べ、女性司会者のほうはというと、1951年、第1回からじつは加藤道子という俳優が担当していた。女性アナウンサーを挟みつつ、丹下キヨ子、水の江滝子、中村メイコ、森光子、黒柳徹子といった俳優たち、あるいは歌手たちが多く司会をしているのだが、90年代になると、朝ドラや大河ドラマに出演する若手女優(石田ひかり、松たか子)を起用するケースが現れ始め、近年はもうずっとこのパターンになっている。しかし、たしか「紅白」は紅組白組が時代遅れだということになったと思うのだが、本気で紅白の対決をやっていた時代のほうがじつは強力な女性司会者が必要で、近年のほうが、女優はむしろ花を添える役割になっている、その傾向が強まっていることに気がつかされたがこれはいったいなんなんだろうか。

 
 
京浜急行本線の終着駅、浦賀駅から歩くこと、30分ほどだったろうか。為朝神社というところまで、浦賀の虎踊りを見物に行ってきた。バスもあるのだろうが、30分ぐらいで着きそうだと思ったら私は苦にならないから歩いてしまうことにしている。グーグルマップを確認すると、為朝神社までの道のりはわかりやすく、夕方、だんだんと日が沈んでいく風景を眺めながら、海沿いの道路を私はのんびりと歩いていった。
 
為朝神社は表通りから引っ込んだところにひっそりとあった。小さい神社である。到着したときには19時を過ぎていたはずだ。神社の前には屋台がいくつか出ている程度で、さほどにぎやかではないと思ったが、近づいてみると、狭い境内には椅子替わりのビールケースが並べられ、すでにびっしりとお客さんが入っていた。なんとしたことだろうか。気圧されながらも遠慮がちにそっと境内に入っていくと、客席の前には見事な特設舞台があり、その横、拝殿の階段には法被を着たお囃子のみなさんがスタンバっている。この光景、この素晴らしい演劇空間に私はまず大いに昂揚させられた。しかし、それよりも自分の席を確保しなければと、いちばん後ろの空席にいったん座ってみたが、どうもこの席は居心地がよくない。私は後ろで立って観ることにしたが、といっても、後ろもほとんどスペースがなく、バッグはかさばるから後ろの茂みに放り込み、写真を撮るためにスマホだけを握りしめ上演を待った。
こういう民俗芸能の場はだいたいそうなのだが、来賓として地元の県会議員や市議会議員らが出席し、始まる前に順番にあいさつがある。外に黒塗りのクルマが停まっていたのはその誰かが待たせていたのだろう。地元横須賀、小泉進次郎もくるはずだったのかよくわからないが、ジャカルタ出張のため、代理の人間が替わりに出席していて、進次郎のあいさつが代読された。
 
さて、いよいよ虎踊りだが、演じるのはおもに子どもたちだ。まずは白塗りの子たちがずらりと並び、お囃子に合わせて踊るのだが、これは歌舞伎や唐人踊りを取り入れたものだそうで、なるほど、それらしいメイクをしている。お囃子隊には歌う担当の女性がいて、さながらメインボーカルだが、民謡もこの場で歌われる。そして、中盤になって登場するのが2体の虎である。いったいなんと表現すればいいだろうか、これには登場した瞬間に度肝を抜かれ、ちょっと予想を超えたものが出てきたという感じなのだが、その大きさと迫力、造形のかわいらしさ、なにしろ、着ぐるみであることにびっくりするのだが、こうした全身を着ぐるみで覆う虎踊りというのは全国的にもとても珍しいもののようだ。虎の動きがまたかわいらしく面白いのだが、中国の獅子舞と同じように1体をふたりひと組で演じ、ひとりがひっくり返って、虎がバンザイしてるようにしてみせたり、なかなかアクロバティックな技も繰り出される。これは近松門左衛門の「国姓爺合戦」にある虎退治の場面を演じているということなのだが、いや、そんな説明をされたとしても、ストーリー以上に惹きつけられる部分がはるかに大きい。
さらに驚くのは、これがわずか20分ほどのお芝居だということだ。圧倒されている間にすぐに終わってしまう。稽古もするだろうに、これだけ魅力的なものが、年に一度、たった20分だけしか演じられないとはいったいどういうことなんだろうか。為朝神社には1時間もいなかったと思うが、ここにはるばるやってくることの価値をより感じながら、私は興奮がおさまらないまま、浦賀駅までまたのんびりと歩いて帰っていった。












今週はラジオを聴いていると、いくつかの番組でやたらと評判になっている出来事があった。明治記念館で開催された「第一回 玉袋筋太郎芸能生活四十周年を祝う会」である。先週の土曜日だったか、開催されていたその日にインスタを開くと、そのパーティーの画像がつぎからつぎへと出てくるのだ。私も興味があるから片っぱしから見ていたのだが、いや、これはただ事ではないぞと思った。なにしろ、そこにいる顔ぶれがすさまじく、ピエール瀧、宇多丸、スチャダラパー、タブレット純、猫ひろし、大久保ノブオ、松本明子、高田文夫、徳光和夫、草野仁、赤江珠緒、村西とおる、鈴木宗男、立川談春、太田光までいる。


こうなると楽しみになるのはラジオだというわけで、この話題が出そうなラジオを追いかけて聴いていたのだが、なかでも、火曜深夜の「爆笑問題カーボーイ」(TBSラジオ)は抱腹絶倒モノの面白さだった。この番組のオープニングではよく、テレビ番組やライブの裏話が太田から語られるのだが、そのときに楽屋で誰と会って、どんな会話をしてということをいつも太田はじつに細かく記憶していて、それを再現してみせるのである。この芸をなんと呼んだらいいのかわからないのだが、ラジオで培われた芸であることは間違いないとは思うが、この話術は芸人太田光のもっともすごい独自の芸ではないかという気がしている。

太田は高田文夫、テリー伊藤と同じテーブル、松本明子、立川談春、ワタナベエンターテインメントの吉田正樹会長もいて、そこになぜか村西とおるもいる。隣りのテーブルはアナウンサー席になっていて、徳光和夫や草野仁、赤江珠緒がいる。その反対側のミュージシャン席にはピエール瀧やスチャダラパー、そこにはアンジェリーナ1/3も混ぜられていた。司会は徳光正行と外山惠理。この会の主役、黒紋付の玉袋が入場してくると、宇多丸がラップしながら一緒に練り歩く(これはインスタで動画を観た。)。開会宣言はピエール瀧が務め、太田は「犯罪者!」と野次を飛ばしていた。そんな状況のなかで配膳していた明治記念館のスタッフたちのことを「悔しかったと思うよ」というのが可笑しい。

太田のテーブルには高田文夫とテリー伊藤がいるからいろんなひとがあいさつにくるそうで、猫ひろし、タブレット純、三木のり平の孫、ベン村さ来、吉田豪らがやってきた。太田が喫煙所に行くと、ピエール瀧とアニとシンコがタバコを吸っていて、その向こうの式場では「なんの罪もない結婚式」をあげていたそうだ。なにしろ、格式ある明治記念館でこんなめちゃくちゃな会が行われているのである。村西とおるも鈴木宗男もこんな場では言うのが憚られるようなことしか言わず、会場には前科のある人間がやけに多いのだ。(月曜の「ビバリー昼ズ」では、高田文夫が村西とおるのことを「世が世なら射殺されてるぞ」と言っていた。)


パーティーの翌日、「爆笑問題の日曜サンデー」(TBSラジオ)では、当の本人、玉袋筋太郎がゲストだった。そういえば、前の週に玉袋がゲストだと予告されていて、なにか唐突な気がしていたが、このパーティーがあるからゲストが決まったのだろうか。ここで驚いたことのひとつは、玉袋はこのパーティーの招待状を高市早苗にも送っていたということだ。高市はもちろん欠席したのだが、なんでも、浅草キッドは高市の結婚式の司会をしたんだそうで、私はその時代の浅草キッドは追いかけて観ていたはずだが、私はそれを覚えていなかった。(浅草キッドが政治家にインタビューする「アサ秘ジャーナル」という番組があったが、検索してみると、「アサ秘ジャーナル」でそれを放送したようだから、もしかしたら、私はそれを録画してあるかもしれない。)

太田のスピーチについて、月曜の「ビバリー昼ズ」(ニッポン放送)では、客スジが一緒なのでなにを言ってもウケるから太田が漫談を降りなかったと言われていたが、本当はスピーチで言おうと思っていた言葉があったことを太田は「日曜サンデー」では話していた。爆笑問題と浅草キッドのかつての敵対関係はわりとよく知られることではあるだろうが、太田は玉袋のこの会に出席していることが感慨深く、チャップリンの「ライムライト」から「時は偉大なる作家だ」というセリフを引用するつもりだったのだ。

このパーティーには(あえてそうしたのだと思うが)水道橋博士を含め、たけし軍団は誰も出席していなかったようだが、「時」という作家にはまだまだ書いてもらいたいことがある。博士にも太田のこの言葉が届いていればということも私は思ってしまった。

「※女性は見ないでください」という謎の番組がテレビ東京の深夜に放送されていた。霜降り明星せいや、見取り図盛山、ニューヨーク嶋佐という3人がテーブルにつき、向かい側には若い女性タレント3人が座っている。3対3で飲み会をしながらトークをする番組かと思いきや、会話中に男性陣の誰かがボタンを押すと天井から仕切りが降りてきて、男性陣3人だけで男の本音をぶちまけるという番組であった。だから「女性は見ないでください」というわけだが、最後には唐突にコウメ太夫が登場し、番組の総括をする。

このご時世、これが挑発的に仕掛けたものであるという意図ははっきりしていると思うが、そうなると、思う壺な批判は必ず出るもので、批判的な声に対し、さらに反発する声がくるところまでは予想がつく。つまり、批判者と擁護者がよってたかって過剰評価を作りあげるという状況ができあがる。特に政治の場では、兵庫県知事選の斎藤元彦のあたりから、石丸伸二も、参政党も、もしかすると高市早苗も、そのようにして主役の座を獲得していったのではなかったか。いや、政治の話をしたいわけではないのだが、この番組もそのようなものであって、しゃべっている内容は今のテレビやラジオのなかでもとりわけ過激な話ではないような気がするし、せいやたち3人の力量は大いにあるが、その挑発的な意図とその反応との共同作業により、よってたかって面白い番組を成立させているというところだろう。(桂米朝の落語論では、人情噺であれ、怪談噺であれ、オチがあることによって「しょせんは落とし噺ですよ」ということが示されていると説くが、この番組におけるコウメ太夫の存在も「しょせんはバラエティ番組ですよ」と示しているかのようだ。)

 

もうひとつ付け加えることがあるとすれば、社会を急進的に変えようとするときには必ず歪が生まれる。その歪を修正するように、行きつ戻りつして、何年かのちに漸進的に社会が良くなっていけばいいのではと私は思うが、何年もかけてられないよという声もきっとあるだろう。しかし、何年もかける以外の道はおそらくないのだ。その歪を修正するために、笑いが緩衝材になるだろうというのが人類の知恵であって、その笑いが通用しなくなっているのだとしたら、その社会はあまりにも余裕がない。そうなのだ、実際、われわれの社会には余裕がない。私はなにか大げさな話をしているのだとは思うが、こういうことが結局は過剰評価となるのである。

90年代 笑いの俳優たち


先日、このブログで梅垣義明と吹越満のことを書いたら、「風、薫る」に梅垣義明が出てきたので歓喜の声をあげてしまったのだが(女郎屋の主人の役)、「ばけばけ」にはやはり、WAHAHA本舗出身の岩谷健司が借金取りの役で出ていたし、どういうわけだか、ここへきて、朝ドラ悪役のWAHAHA本舗率が高まっているのである。岩谷健司は最近の映画やドラマにやたらと出ている俳優のひとりだが、WAHAHA本舗の時代には「てるやいわや」というコンビで「GAHAHAキング」(テレビ朝日)に挑戦していたこともあった。梅垣義明にしても、もしかしたら、鼻から豆を飛ばす梅垣義明は知っていても、素顔の梅垣義明とは一致しないというひとはけっこういるのかもしれない。

私が梅垣義明をテレビで初めて観たのはいつだったかというと、検索してもわからないから記憶で書くが、TBSに「爆笑スペシャル」という番組があったはずなのだが、そこで初めて観た梅垣義明は鼻から豆を飛ばすひとではなく、鼻の両穴にタバコを差して、くちから煙をもくもく吐きながら「スモーキン・ブギ」を歌うひとだった。出で立ちは同じ、女装のシャンソン歌手だが、アカペラで「スモーキン・ブギ」やタバコにまつわるいくつかの歌を歌いながら観覧席を練り歩いていく。その後、「ろくでなし」を歌いながら豆を飛ばす芸はどれだけ観たかわからないし、そのうちの何度かはライブでも観ている。あの芸は観客を巻き込んでいく芸だから、ライブで体験してこそなのである。

 

そして、タイミングを同じくして、「週刊大衆」に吹越満のインタビューが掲載されているのを見つけ、これまた私は歓喜の声をあげてしまった。谷崎潤一郎原作の「鍵」という映画に主演したそのインタビューなのだが、吹越は梅垣以上に俳優としてよく認知されているだろう。

私が吹越満を初めて観たのは「ナベさんミッちゃんのまねまね天国!」(テレビ東京)という番組だった。吹越満といえば「ロボコップ演芸」という時期があったが、それはどういう芸かというと、「ウィーンガシャン、ウィーンガシャン」と言いながらロボット風の動きで「ロボポール牧」や「ロボ谷啓」をやってみせるというもので(のちにコロッケがロボット五木ひろしを編み出すが、私見では、時期的にも吹越満の「ロボコップ演芸」をパクった可能性は大だと思う。)、ロボコップのマスクをかぶっているから、初めて観たときにはやはり、私は吹越満の顔を認識できなかった。吹越満は「まねまね天国」では5週勝ち抜き、初代チャンピオンとなる(この番組のチャンピオンは、2代目浅草キッド、3代目電撃ネットワーク、4代目バカルディと続いた。)。


演劇からお笑いの世界に進出する場合、たいがいはコントということになるのだが、梅垣義明と吹越満はともにピン芸、しかも、きわめてオリジナリティの高い芸風であり、その特異点のようなふたりがWAHAHA本舗から同時に現れたということに驚きたくもなるのだが、才能はどうやら不思議と同じところに引き寄せられていくもののようである。

「ピン芸」という言葉は今ではあまりにも便利に使われ、「R-1グランプリ」はピン芸を貧しいものにしていったと思うのだが(おそらく、予選の審査員たちの見る目が貧しいからそうなっていった。)、梅垣義明と吹越満にはぎりぎり「ボードビリアン」といえそうな洒脱なセンスがあった(「ボードビリアン」と「ピン芸人」の断絶はまた別のテーマにしたい。)。


以下、「週刊大衆」の吹越満のインタビューから少し引用してこの項を終わりにしよう。

「テレビではよくお顔を拝見するけど、名前が分からない。そういう人っているでしょ。デビュー当時のタモリさんとか。ああいった〝得体の知れない〟っていう雰囲気が好きだったんです。」

「『フキコシ・ソロ・アクトライブ』を始めたのは89年です。(略)あのときは、上京したときに頭の中にあった〝得体の知れない〟ということに対する希望というか、執着をまだ持っていたんでしょう。その頃に刺激を受けたのが、いとうせいこうさんです。(略)いとうさんが、マイク1本でスタンダップコメディをされているのを観て、それこそ〝得体の知れない〟人に見えたんです。」

「仕事の部分でいうと、ずっと「俳優って何か」ってことを考えているんです。収入を得るためにやっているとはまた違うし、たくさんの作品に出れば良いということでもないだろうし。別の例えでいうと、ダンサーは踊る人のことだけど、じゃあ踊らない人はダンサーじゃないのかって。踊れるダンサーが真っ直ぐ、ただ立っているだけの時間があったら、表現としてそれは踊りではないのか……っていう押し問答になるようなことが必要になってくるんだと思うんです、俳優って職業は。」