千原兄弟について今まであまり考えてこなかったからいろいろと忘れていることも多いのだが、爆笑問題と千原兄弟といえば、「お笑いダンクシュート」(NHK)という番組もあった。今でもNHKはその種の番組をときどきやるのだが、そのときの旬の若手芸人を集めたネタ番組を不定期で放送する。ウィキペディアを信用すると、「お笑いダンクシュート」の初回は1994年12月(爆笑問題と千原兄弟が出会った「GAHAHAキング」はこれより前ということになるか。)、初回には爆笑問題と千原兄弟のほか、キャイ〜ン、フォークダンスDE成子坂、ますだおかだ、ジャリズム、しましまんず、ピーピングトムが出演したようだ。おそらく、この時点でいちばん売れていたのはキャイ~ンだったのではないだろうか。「GAHAHAキング」のチャンピオン3組がそろっていること、そして、千原兄弟とともに東京で売り出されるジャリズムがここにいることにも注意したい。(しましまんず、ピーピングトムがいるのはよくわからない。)

ウィキペディアを見ると、爆笑問題と千原兄弟の共演は私の印象よりも少なかったことに気がつかされるが、「お笑いダンクシュート」は1997年12月まで放送され、1998年には「爆笑・千原の天然パラダイス」(NHK)という番組がこれも不定期に放送される。だからこの2組の印象が強くなっていたのだろうと思うが、この時期、若手芸人の東西のトップとして目されていたのが爆笑問題と千原兄弟だったことは間違いないだろう。1999年3月には「爆笑オンエアバトル」(NHK)が始まり、若手芸人の顔ぶれは様変わりしていく。


同時期に「ボキャブラ天国」(フジテレビ)のブームがあったことも忘れてはならないが、「お笑いダンクシュート」の出演者にはキャブラーたちもいることはいるのだけど、ブームの影響がそこまで反映されていたようにも見えない(むしろ、「NHK新人演芸大賞」の影響はあるだろう。)。「ボキャブラ天国」が完全に芸人番組に舵を切ったのが1996年10月のリニューアルだが、「お笑いダンクシュート」は1997年になると、バカリズムやふかわりょうといったそのあとの世代もピックアップしている。

「ボキャブラ天国」の時代に、ブームに乗れなかった吉本勢はどうしていたのか(吉本でもモリマンや幹てつやは出演していた。)、特に関西の動きは関東在住の私にはわからないことがかなり多いのだが、もっと大きな状況としては、1995年にはダウンタウンが社会現象的な大ブレイクを果たし、若手芸人のあいだには「ダウンタウン病」が蔓延していた。想像するに、関西ではさらにそうなのではなかっただろうか。笑いの先鋭化、なのに、東京ではダジャレが大当たりしていた。


笑いの先鋭化ともうひとつ、ダウンタウンがもたらしたものは関西の土着的な文化だった。松本人志にラジカル・ガジベリビンバ・システムやいがらしみきおからの影響があることは今では明らかだが、東京ではサブカルチャーだった先鋭的な笑いを、ダウンタウンは関西の土着的な笑いと融合させた。それはもしかすると、関西特有のヤンキー文化でもあるだろう。その延長に存在するのが千原兄弟だが、しかし、千原兄弟が選んだのは漫才ではなくコントなのである。関西にはやはりそのようなコントのグループがいくつも現れたのではと思うが、関東からはそこまで認識できていなかった。90年代後半、「M-1」の時代以前ということだが、その時代の関西のコントの状況が気になるものの、私にはわからないことばかりだ。

「爆笑問題カーボーイ」(TBSラジオ)に千原兄弟がゲスト出演し、この番組の出演は28年ぶりだそうだが(1998年以来か)、なかなか興味深い話がいくつもされていた。太田は千原兄弟との初対面を記憶していて、その情景を語るのだが、それは「GAHAHAキング」(テレビ朝日)の楽屋だったそうだ。社交的なせいじが東京の若手たちとにぎやかに話していたのとは対照的に、ジュニアは楽屋の奥でひざを抱えていた。太田はジュニアに話しかけ、「お前、なんかナイフ持ってんだって? お前さ、俺、ナイナイ気に入らないからさ、そのナイフで岡村刺してくんないか?」と言ったのが最初の会話。ジュニアはナイフを持ち歩いているという噂があったからだが、ナインティナインと千原兄弟の関係も察してのことだ。

当時の太田がさかんにナインティナインを攻撃し、ナイナイに対する東京勢の風当たりが強かったことなどは、太田が岡村隆史と対談した「太田光と15人のしゃべり手」でも語られていたが、同じ吉本内でもある種の緊張関係はあったのだろう。ナイナイが主演した「岸和田少年愚連隊」(井筒和幸監督)の続編、「岸和田少年愚連隊 血煙り純情篇」(三池崇史監督)の主演を千原兄弟が務めたときには、ジュニアはたしか、ナイナイに挑発的な発言をしていなかっただろうか。


「GAHAHAキング」は私は欠かさず観ていたはずなのだが、後継番組の「GAHAHA王国」を含めたとしてもこの千原兄弟が出演した回をなぜか私は覚えていない(トータル、1993年10月から1995年9月まで放送。)。しかし、勝ち抜きの挑戦者ではないことはたしかで、おそらくなにかの特別企画だったのだろうと思うが、千原兄弟の出演に特に驚きもなかったということだろうか。

私が千原兄弟を初めてテレビで観た番組ははっきりと覚えていて、「M10」というテレビ朝日の深夜番組だったはずだが(やしきたかじんが降板した事件でも知られる番組。1992年10月から1993年10月まで放送。)、平日の深夜に生放送されていたその何曜日だったか、若手芸人が特集された回があり、千原兄弟のほかには、大人計画の阿部サダヲや宮藤官九郎らによる「四天王」というユニットが出演していたことを覚えている。なぜかその2組を覚えているのは、その2組だけが関東のこの種の番組では珍しかったからだろう。それから間もなく、千原兄弟はポストダウンタウンの筆頭のようにして頭角を現していく。


ウィキペディアにあたってみると、千原兄弟の東京での最初のレギュラー番組は「エンタメゆうえんち 東京移住計画」(フジテレビ。1995年10月から1996年3月。)ということになるのだろうか。土曜深夜に放送されていたこの番組(つまり、「殿様のフェロモン」と同じ枠。)も私は記憶しているが、千原兄弟とともにジャリズムも出演し、メインの司会者は関根勤だったが、「東京移住計画」と題するからにはもちろん、千原兄弟とジャリズムを売り出すための番組だったのだろう。同時に、1995年10月から千原兄弟はTBSラジオでも番組を始める。これが「爆笑問題カーボーイ」のなかでも触れられていた「UP'S 千原兄弟の!」という番組で、この番組は約1年で終了するが、同じ火曜の「UP'S」の枠を1997年4月から担当し、今も続くのが「爆笑問題カーボーイ」である。いっぽうのジュニアが記憶していた、TBSの廊下で会った太田が「今、本書いてんだよ。」と言っていたという会話は、どうやら、千原兄弟が「UP'S」を担当していた時期のことのようだ。その本こそが、1997年初頭に刊行されベストセラーとなった「爆笑問題の日本原論」だった。


太田光と岡村隆史の会話から

夏目漱石「坊っちゃん」の新潮文庫の解説を江藤淳が書いているのだが、何年か前に読みなおしたときに、今の時代にとても参考になるのではないかと思うことが書いてあった。(執筆されたのは昭和54年9月と書かれている。)

江戸から明治へと価値観が大きく変わる時代に、当時の作家たちがどんな態度を示したか。今はこういう時代なんだからアップデートしなきゃだめなんだということは近年よく言われることだが、明治の作家たちもそう思ったのだろう。彼らの近代小説は江戸的な感受性と倫理観を否定するところから出発する。それは坪内逍遥が「小説神髄」で唱導した路線だが、ところが、漱石文学の核となっているのはまさにそのような江戸的な感受性である。


「漱石文学の核に潜んでいるのは、おそらくこの寄席趣味に象徴される江戸的な感受性である。それは感性的なあらわれかたをすれば長唄に「恍惚」するような感覚になるが、倫理的に表現されれば儒教的な正邪曲直の観念となる。そしてこの美意識と倫理観は、実はわかちがたくまざりあっていて、彼の文学を特徴づけているのである。」

「ところで、漱石以外の近代作家は、その多くが漱石が自らの血肉にしていた江戸的な感受性と倫理観を否定するところから出発していた。それは、とりも直さず坪内逍遥が『小説神髄』で唱導したいわゆる近代小説の路線である。」

「この新文学とは、一言にしていえば「真」の文学である。つまり、十九世紀のリアリズム文学観を支える「真」の原理によって貫かれた文学である。しかし、漱石の文学、特に初期の『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などに一貫している原理は、決して「真」の原理ではない。『坊っちゃん』は、「真」の原理からいえばかつて正宗白鳥が評したように、「型の如き人間」ばかりが登場する「通俗小説」で「卑近な正義観」を振りまわしているだけということになるが、これを逆転させてみれば、「型の如き人間」とは現実には存在し得ない人間であり、「卑近な正義観」」とは決して実生活では実現できぬ正義観だということになる。したがって〝坊っちゃん〟とは、あたかも人語を語る猫と同様に、現実には存在し得ない原理によって生きている人物にほかならず、その原理とは「善」と「美」の原理以外のなにものでもないということになるのである。漱石の文学が今日に生きつづけている一つの理由は、まさにそのなかにこの「善」と「美」の原理が切り捨てられることなく脈々と生きているからにほかならない。」

「排他的で、リズミカルで、やや軽佻浮薄な趣がなくもない江戸っ子弁。そういう言葉でしか語らない坊っちゃんという一人称の主人公を登場させたとき、漱石はそれと同時に、ためらうことなく堂々と勧善懲悪の伝統を復活させてみせた。これはいうまでもなく、二十年前に坪内逍遥が『小説神髄』で説いた近代小説理論への反逆であり、近代以前の小説がその上に基礎を置いていた価値観への復帰である。」


ここで改めて気がつかされるのは、新しい価値観にアップデートしてみせた近代作家たちの誰よりも、漱石の文学のほうが今でも広く読まれ続けているということである。そして、ここからがさらに重要だ。


「しかし、作者漱石は、同時にこのような立場が、無限に敗れつづけなければならぬ立場であることを熟知していた。「これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ」という坊っちゃんは旧幕臣の出であり、彼の盟友山嵐は朝敵の汚名を着せられた「会津っぽ」である。二人は二人とも時流に取り残された敗者の裔にほかならない。」

「このように、一見勝者と見える坊っちゃんと山嵐が、実は敗者にほかならないという一点において、一見ユーモアにみち溢れているように見える『坊っちゃん』全編の行間には、実は限りない寂しさが漂っている。そしてこの寂しさの存在によって、『坊っちゃん』はその勧善懲悪の天衣無縫さにもかかわらず、やはり近代小説になり得ているのである。」

 

 

新しく始まったカンテレのドラマ「銀河の一票」が初回からとても面白かった。ワンクールごとにたくさん始まるドラマのなかからどれを観ようかと決めるのはなかなか難しい判断なのだが(判断に失敗して、名作をいくつも観損ねている。)、「エルピス」の佐野亜裕美がプロデューサーだと知ったときにこれは観てみようと思った。


主演は黒木華。黒木華が演じるまつりの父(坂東彌十郎)は政治家、民政党の幹事長を務めているという人物で、まつりは父の秘書をしている。車椅子の母(小雪)は後妻なのだが、インフルエンサーでもあり、バリアフリーではないところに行って悲しむ投稿をしたりもする。まつりの実母(本上まなみ)は亡くなっている。「道に迷ったら明るいほうへ行くの」「暗いほうに行っちゃだめ」というのが母の教えだったが、幼いまつりが「どっちが明るいかわからなかったら?」と訊くと、母はまつりのために電球のペンダントを作ってくれた。まつりは目指すなにかを見つけるとそれに向かって一直線になる子で、迷子になると、なぜか暗いほうに行ってしまうのだった。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という宮沢賢治の言葉を父は理想にしていた。ところが、父は政治の世界で変わってしまったのだろうか、まつりは父の疑惑を確かめようとする行動に、それこそ一直線に向かっていく。まつりは点字ブロックの上に荷物を置く男を注意するような正義感の持ち主だが、しかし、自分はうっかり置いてしまうこともあった(濱田祐太郎が一瞬登場)。


もうひとりの主役、野呂佳代が演じるあかりはスナックで働いている。まつりとあかりの出会いの場面、自己嫌悪に陥るまつりはあかりにかけられたなにげない言葉に救われる。この野呂佳代の威力はなんだろうか。まつりがスナックを訪れてからの場面は第1話最大の見せ場だが、黒木華にしても野呂佳代にしても、まっすぐなメッセージがこのふたりから発せられるとなぜだか心揺さぶられてしまう。そして、スナックに集まるひとびとがまたいいのだが(岩松了が最高)、ここに描かれる政治家と庶民はかなりわかりやすすぎる構図にも思えるものの、政治やさまざまな差別構造といった骨太なテーマを描きながら、このわかりやすい構図が娯楽作品としての面白さを担保している。素晴らしいテーマを掲げているだけではドラマにはならないだろう。初回から大いに惹き込まれたが、物語が本格的に転がっていくのはこれからだ。はたして、明るいほうに向かっていくのかどうか。今季は「風、薫る」と「銀河の一票」、2本の女性バディドラマを楽しみに観ていくことにする。

昨日書いたことをもう少し補足しておきたい。といっても、とんねるずのことではなく、「喜劇人」と「お笑い芸人」が別のものであることについて。


小林信彦に「日本の喜劇人」という名著があるが、私は大学生の頃にこの本を新潮文庫版(1982年刊)で初めて読み、その後もことあるごとに読み返してきた。エノケン、ロッパから始まる喜劇史が、この文庫版では、タモリ、たけしで締められている(私が読んだのは90年代半ばだから、タモリ、たけしの未来をもちろん知っている時代に読んだということだ。)。この「日本の喜劇人」の「決定版」が5年前(2021年)に刊行され、「決定版」ではこの最終章が大幅に書きなおされている。「決定版」では文庫版には書かれていなかったさんまを登場させ、タモリ、たけしについては文庫版のほうがよっぽど熱がこもっていたのだが、「決定版」ではあっさりしたものに修正されている。その替わりに大きな比重になったのはドリフで、「決定版」ではまず、いかりや長介について詳しく、そして、志村けんについては、タモリ、たけしよりも大きな扱いになっている。つまり、これは私の解釈だが、小林信彦はおそらく、BIG3は「日本の喜劇人」の流れでは語れる存在ではないと結論づけたのではないか。


このブログには以前も書いたことがあるが、小林信彦の「日本の喜劇人」はもともとは70年代に「新劇」という演劇雑誌に掲載されていたもので、これは宮沢章夫が指摘していたことだが、当時は戯曲が圧倒的なものだったから、それを身体に取り戻すという時代の要請があって書かれている。そこで有効になったのが「道化論」だという。「喜劇人」というと今では「お笑い芸人」と同じように考えてしまうのだが、この本は演劇論であるから、俳優論の一種である。

「決定版」には巻末に小林信彦のインタビューが載っていて、BIG3以降の、とんねるず、ダウンタウン、爆笑問題、さまぁ~ず、サンドウィッチマン、伊集院光たちを本書に書いていない理由が語られているのだが、これはまさに、この本の編集者が「喜劇人」と「お笑い芸人」を同じように考えているからこういう質問になるのだろう。普通に読めばわかることだが、「決定版」の最終章には三宅裕司と風間杜夫も加えられ、気になっているひととして大泉洋を評価している。「喜劇人」とは喜劇俳優のことなのだ。(しかし、とんねるずについては小林信彦は誰よりもさんざん評価してきたはずで、ちくま文庫のコラム集などで読めるが、このインタビューでは苗場のライブを観たことがないからきちんとした評価ができないとかいって、どうも納得しづらい逃げかたをしている。風間杜夫を入れるなら、大竹まことのラジオにはよく出演していた小林信彦なんだから、シティボーイズも入れてくれよ、編集者もそこに気がつけよという不満もあるのだが。)


だから、長くなるからもう結論だけ書いてやめたいが、喜劇史とは接続できないものとして、BIG3から始まる「お笑い史」を編んでしまえばそのほうがすっきりするというのが私の考えである。かつては蔑称的なニュアンスがあった「お笑い」という言葉だが、「お笑い」としか言えないものになってからもうずいぶんの年月が経っている。その起点は、漫才ブームがあった1980年ということになるだろう。

 

 

木梨憲武が出演した「それ Snow Man にやらせて下さい」(TBS)の3時間スペシャルを観たのだが、これがあまりにもとんねるずの番組になっていてとても面白かった。憲武が出演していたのは3時間のうちの2時間ぐらいだったが、Snow Man のメンバーには憲武の登場は知らされず、いきなり現れ、バスツアーに連れて行くのである。連れて行かれた先には、NIGOやりくりゅうなど、信じられないようなゲストが待ちかまえていて、憲武の思いつきのようにしていろいろなゲームが行われる。同様の企画は1年前にもあり、私はそれも観ているのだが、木梨憲武ひとりが加わるだけで見事にとんねるずの番組になってしまう。もっとも、普段のこの番組を私はまるで観たことがないのだが、そこは中年男だから勘弁してもらいたい。男性アイドルグループの番組を好んで観ることはないが、しかし、私はミーハースキルがあるので、観たら観たで Snow Man に興味はもつのだ。


私は10代の頃にとんねるずの全盛期をテレビで観ていた世代だが、少しあとに現れる、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンとなにが決定的に違うのかというと、とんねるずは歌とダンスの能力が格段に高いのだ。「お笑い第三世代」にとんねるずを含める言説もあるが、これは後付けの分類で、その当時に「お笑い第三世代」と呼ばれることはほぼなかったのではないだろうか。「お笑い芸人」という言葉がいつからこんなに定着したのかも諸説あるが、志村けんなどは自分は「お笑い」じゃないとことあるごとに発言していた。「お笑い」にはかつては蔑称的なニュアンスもあったのだ。志村が亡くなったときには「最後の喜劇人」といった書かれかたもしていたが、私見では、東京の喜劇の良質な部分が継承された最後の存在がとんねるずということになるだろう。一般的には「喜劇人」と「お笑い芸人」は同じものだと思われているが、「喜劇」と「お笑い」の歴史はつながるようでつなげようとするとうまくつながらない。喜劇人の文脈の末端にとんねるずは存在し、それとすれ違うように松本人志が存在した。喜劇人はエンターテイナーだからなんでもやるのであって、お笑いが歌なんて、お笑いがドラマなんて、という考えはそこにはまったくない。


「それ Snow Man にやらせて下さい」では、Snow Man のメンバーとゲストのりくりゅう、生田斗真が、スケートリンクでイントロクイズ対決をする企画があったのだが、「ガラガラヘビがやってくる」が流れたときにそれをわかったのは生田斗真だけだった。ほかのみんなはぽかんとしていて、りくりゅうのふたりはとんねるずの曲であることすら知らないようだったが、木原龍一は1992年生まれ、Snow Man も最年長が同じく1992年生まれ、なにしろ、「ガラガラヘビがやってくる」はまさに彼らが生まれた年、1992年のヒット曲だ(生田斗真は1984年生まれ)。しかし、それにしたって100万枚を超える大ヒット曲なのである。(1995年のヒット曲「WOW WOW TONIGHT」は若い世代にも知られているのではないだろうか?)

番組内では「平成のバラエティ」ということが何度も言われていたのだが、考えてみると、彼らが考えるとんねるずのイメージは、私の世代からすると全盛期をとうに過ぎたあとのとんねるずなのだろう。私にとってはとんねるずはエンターテイナーだから、正直に言って、ゲームやドッキリに終始するその頃のとんねるずの番組をそこまで好んで観ることはなくなっていたのだが、現在、それらが失われてみると、その頃のとんねるずの番組にもまだまだとんねるずらしさが溢れ返っていたのだと改めて気がつかされた Snow Man の番組だった。



横浜の野毛地区で開催されている「野毛大道芸」に今年も行ってきた。このブログに書くのは初めてだが、野毛大道芸は今年でちょうど40周年、私は2000年代から毎年通うようになったのだが、かつては早野凡平やパン猪狩(東京コミックショウのショパン猪狩の兄)も出演していた。私が通うようになってからは、「紅白」にも出場した民謡歌手の伊藤多喜雄や、あの長谷川きよしが梅津和時と一緒に出ているのも目撃している。一時期はみなとみらい地区にまで会場が拡大されていたのだが、その後、分裂騒動などを経て、今はほぼ野毛地区だけの規模に落ち着いている。
しかし、私が観始めた頃からするといかにも芸人らしい匂いを発散するアクの強い芸人はずいぶんと減ってしまい、アート、または、まるでスポーツのような、健全なイベントになったといえばいいことなのかもしれないが、野毛という街がブランド化されたいっぽう、野毛大道芸のほうはちょっとおとなしくなっているような印象を私はもっている。

シルヴプレというパントマイムの男女コンビは常連出演者のひと組で、もうけっこうなベテランではないかと思うのだが、いつまでも清新な印象がある。野毛大道芸ではほぼ毎年、私はシルヴプレを観ている。似たパフォーマーがあんまり思い浮かばないからどう説明していいか難しいのだが、おなじみのブリッジを挟みながら、いくつかのスケッチ(コント)をパントマイムで演じていく。白一色の衣装、最小限の小道具、アイデアはどれもいたってシンプル。シンプルゆえの美しさがある。基本はサイレントだが、いつの頃からかしゃべるネタもやり始めた。シルヴプレを初めて観たときから初めて声を聴くまではけっこう長かったような気がする。そのくらい、普段のスケッチは抑制的なのである。しゃべるネタを観てから、このふたりはじつはこういうキャラクターなんだと私には初めて理解できた部分もあった。

サクノキというクラウンの芸人はここ数年で好きになったひとだが、このひとは子どもの扱いがばつぐんに上手い。観客から子どもを引っぱり出し、いろいろと手伝わせたりする手法自体はよくあるものだが、観ている子どもたちがどんどんサクノキの味方になっていくのがすごく面白かった。帽子のジャグリングに失敗してみせ、帽子を幕の後ろに放り投げてしまうと、指示したわけでもないのに子どもが勝手にその帽子を取ってきてくれる。何度も失敗していると、アドバイスの声が飛ぶ。子どもたちが本気で心配している表情がいい。子どもを連れてくるときにちょっと乱暴に扱うのも可笑しいのだが、子どもたちはそれを余計に喜ぶのだ。サクノキの温かい芸に感嘆した。

シルヴプレ



サクノキ



笑うアミーゴス(山本光洋&道化師びり&ふくろこうじ)

アストロノーツ

火付盗賊

まだ幼稚園にあがる前だと思うが、母に連れられて近所のうちに遊びに行くと「コロコロコミック」がたくさんある部屋がそのうちにはあって、まるで夢の部屋のようなそこにひとり閉じこもり、ひたすら「コロコロコミック」を読んで過ごしていた記憶が私にはうっすらとある。たしか、そのうちには少し歳上の女の子がいて、幼稚園だか小学校だかに通っていて不在だったのだろう。歳をとるほどに年月の流れは早く感じるようになるものだが、幼少期はわずかな時間がとてつもなく長い時間に感じられていたのか、母たちが茶飲み話をしているだけの時間だったはずだが、果てしない時間を私はそこで過ごしていたような気がする。


小学校もなかほどの学年になると、私は毎月の小遣いで「コロコロコミック」を買うようになっていた。私が小学生の頃は「少年ジャンプ」の黄金期でもあって、「ジャンプ」ももちろん読んでいたのだが、「ジャンプ」を買うことはほぼなかったはずだ。じゃあ、どうやって読んでいたのか不思議なのだが、立ち読みをすることが多かったと思うが(マンガ雑誌が立ち読みできたおおらかな時代だった。また、コンビニが増え始めた時代でもあった。)、「ジャンプ」は同級生が誰かしら持っていたし、捨てられているものを拾ったりもしていた。「ジャンプ」は今の時代からは信じられないくらい売れていたから、そんなことも容易にできたのだ。

では「コロコロコミック」はなぜ買っていたのだろうかと考えると、まず、「ドラえもん」および藤子不二雄の存在はもちろん大きく、子ども心に、「ジャンプ」のマンガがいくら人気だといっても、藤子不二雄は別格だという気持ちが私にはあった。別に私だけがそう思っていたわけではないだろう。当時の子どもたちにとって、藤子不二雄は特別な存在だったのだ。なにしろ、藤子不二雄はまだ現役だった。「コロコロコミック」に藤子不二雄のマンガが載るときには「マンガの王様」と書かれ、手塚治虫が「マンガの神様」と呼ばれていることに対し、藤子不二雄は「マンガの王様」というわけだが、「マンガの王様」という呼称はなぜか定着しなかった(もちろん、このときには手塚治虫も存命中である。)。しかし、私は素直に藤子不二雄は「マンガの王様」だと思っていた。


そして、「ジャンプ」などの少年誌と「コロコロコミック」が大きく違うのは、「コロコロ」には情報誌としての側面もあったということだ。私の時代では、ファミコンやミニ四駆、ビックリマンなど、あるいは Mr.マリックみたいなものまで、子どもの興味に応える情報はすべて網羅していた。われわれ子どもにとっては、それらの情報を読んでなければ話にならないのである。「コロコロコミック」を毎月買うようになった私は、まったく誇張ではなく、あのぶ厚い雑誌のすべてのページに目を通していた。

「「コロコロコミック」は少年少女の文藝春秋である」と嵐山光三郎が評したエッセイを読んだのはいつどこでだったか、もう少しおとなになってからであることは間違いないが、嵐山光三郎のことは子どもの頃から「笑っていいとも!増刊号」の編集長として認識していた。そのとき、私は「文藝春秋」をおとなの「コロコロコミック」と理解したのかもしれない。その後、私は大学生になると雑誌をたくさん読む人間になったが、考えてみると、子どもの頃から「コロコロコミック」を隅から隅まで読んでいたことがその下地になっていたのだという気がする。大学生がいかにも読みそうなファッション誌や恋愛マニュアルが載っているような雑誌よりも、私は「コロコロコミック」と同じ判型の「噂の眞相」や「創」や「広告批評」などを好んで読むようになっていた。

「あちこちオードリー」(テレビ東京)の川島明がゲストの回を観ていたら、若林と川島にはないというミーハースキルの話が面白かった。テレビ東京で経済番組を始めた若林だが、若林は自分がやるのは経済だけ、政治や時事はやらないと決めているらしく、スキャンダルをどうとも思わないという点で若林と川島は共鳴していた。

対して、千鳥のノブはミーハーだという話になるのだが、川島はそれをミーハーなスキルだといって、この世界には絶対必要なスキルだと言った。要するに、女優やアイドルがゲストにきたときに関心がもてるかどうかということだ。


川島が言う「この世界」というのは、お笑い界というよりも司会者の世界だろうか。今田耕司の名が出ていたが、その意味では、今田耕司・東野幸治はともにミーハースキルは高いだろう。有吉弘行や山里亮太にもミーハースキルはありそうだが、設楽統やカズレーザーにはなさそうだ。爆笑問題はふたりそろってものすごくミーハースキルがある。ハライチは得意な分野に関してはミーハースキルを発揮するのではないか。(こういう分類が楽しめそうだということを言いたいのだが、それぞれ、もっと熱心なファンからしたら異論はあるかもしれない。)

若林は世代的に観ていた内田有紀や瀬戸朝香がゲストにきたときにはわくわくするが、2世代ぐらい上の宝塚の女優がきたときには訊きたいことがなにもないとも言っていた。かように、ミーハースキルは世代限定的なものではだめなのだ。


ミーハースキルというのは文筆家にもあって、ナンシー関はものすごくミーハースキルのひとだが、小田嶋隆や武田砂鉄にはミーハースキルがない。たしか、小林信彦はナンシー関を評して、鋭い批評眼とミーハーを両立しているところが稀有な書き手だというような意味のことをどこかに書いていた記憶があるが、これはまさに小林信彦自身にも当てはまるだろう。

あるいは、坪内祐三はよく「ゴシップ的感受性」という言葉を使っていたが、ミーハーではないがゴシップ的感受性はある、というタイプも、優れた文筆家、ないし、優れた司会者には考えられそうだ。



渋谷の伝承ホールまで、「立川談寛真打昇進披露落語会」を観に行ってきた。といっても、落語界のことを知らないひとにはどこから説明すればいいだろうか、立川談志最後の弟子である立川談吉がようやく真打になり、談寛(だんかん)を襲名することになったのである。

よく知られていることだが、たけし軍団のダンカンはもともとは談志の弟子であり、「立川談かん」と名乗っていた。その「談かん」が初代だから襲名というわけだが、談吉がその名前を継ぐと最初に知ったときにはかなり唐突に感じられた。なぜダンカン(談寛)なのか。なんでも、談吉という名前はじつは談志の娘である松岡ゆみこさんが付けたんだそうで、談吉さんとしては談志が付けた名前が欲しかったということらしい。この名前を継ぐためにダンカンにもあいさつし、「談かん」の表記を変えて「談寛」。ダンカンと談寛が同時に存在するという状態になった。


私が観たのは昼夜公演の昼の部だった。13時半に開演すると、まずは前座ののの一が登場、つぎに左平次が登場する。談志の死後、談寛(談吉)は左談次門下となり、左平次とは兄弟弟子という関係になった。その後、左談次も亡くなり、あとに登場する談修門下となって、談吉(談寛)はこの真打昇進を迎えた。(私の説明が足りないぶんはウィキペディアでも見ていただけたらと思います。)

なにより、口上に元兄弟弟子の志の輔とダンカンを並ばせたのはとても貴重だ(口上の時間だけは撮影可だった。)。志の輔が社会人経験をしてから談志に入門したときに、兄弟子として先に入門していたのがダンカンだった。志の輔からその当時の思い出がふり返られ、多くは語られなかったが、その後のダンカンの噂に知る数々の奇行から想像すると、もしかすると志の輔もいろいろとひどい目に遭ったのかもしれない。口上に並ぶダンカンも珍しい着物姿、タイガース柄の黄色い縞模様の羽織を着ていた。


龍志のマクラでは自身が真打昇進したときのことをふり返り、龍志のときも落語協会脱会後だったんだということに今さら気がつかされるが、披露目の会には誰も出てくれず、談志と当時の文治の3人だけの口上だったそうだ。

東京ボーイズを観るのも私はひさしぶりだったのだが、おなじみの「なぞかけ小唄」ではちゃんみなやミセスもお題にして、なおかつ、昔よりもクオリティがあがっている(昔はどんなお題にも使える万能な答えをやっていた。)。おそらく、ねづっちの影響なんかもあるだろう。ほかに誰かネタを作るひとがいるのかもしれないけど、それにしたって、この大ベテランが無理なく今どきの固有名詞を出しているのはすごい。


トリはもちろん談寛だが、談寛の「粗忽長屋」がまたとてもいい。談志ファンならばわかってもらえるだろうが、「粗忽長屋」は談志十八番のなかでもイリュージョン系の傑作である。談志の落語論において、「業の肯定」という大きなテーゼに次ぎ、晩年に現れたのが「イリュージョン」というテーゼだった(私はこれに「江戸の風」を加えたものを談志の落語論の三大テーゼと考える。)。ここは談志の鋭さだが、このイリュージョン論は90年代のシュールな笑いの時代にぴたりと重なることになった。シュールな笑いはダウンタウンにより一般化されたが、松本人志の「VISUALBUM」をその発売特番のなかで談志は評価し、のちには「M-1」の審査員も務める。あるいは、ラーメンズを始めとした若手のシュールな笑いにも談志は理解を示した。そうした時代の流れのなかで立川流に入門し、頭角を現したのが、春吾、談吉、吉笑という3人で、私はこの新しい世代の登場にとても期待したのだが、春吾は辞めてしまい(春吾が辞めていなければ立川流にとってどれほどよかったか)、吉笑は戦略家だから活躍の場を広げていくのだが、談吉がどうも目立ちそこねているようで、私は長らく、吉笑ばかりを推す広瀬和生や九龍ジョーを苦々しく思ってもいた。私はそもそもが談志のファンだから、談志の落語観に合うものは誰だろうかという考えかたをするのだが、談吉だけが直弟子だから当たり前かもしれないが、私は談吉にいちばん談志の落語を感じていたのである。そして、世代的に、イリュージョン期の談志を正しく吸収している唯一の弟子ということにもなるだろう。談志は新作落語を作らなかったが、新作も作る談吉(談寛)のその噺には、談志好みのイリュージョンのセンスが横溢している。

志の輔のこの日のマクラを聴いていて、おやっと思ったのだが、(メモをとっていたわけではないから不正確な引用は避けるが、)志の輔は談寛がいずれは談志を継いだらいいと考えているように私には感じられた。