母に捧げるバラード3 | Nani Mino'aka(亀有のハワイ)

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亀有初・唯一のハワイアン雑貨のお店です。
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Aloha!

 

子供の頃は夏休みとなると、必ず遠出をしていた我が家

お袋の実家は新宿区四谷

四谷と言っても信濃町と四谷3丁目の真ん中あたり。

左門町というところ

そう四谷怪談おばけの舞台となった場所ゲッソリ

ガキの頃はお岩稲荷なんかもいったことがあるが主だった遊び場は神宮外苑

レンタサイクルで外苑をぐるぐる回っていた。

石原裕次郎が亡くなった慶応病院病院もあった。

中学ぐらいになると新宿までは徒歩でぶらついていた。

そう、お袋は都会っ子なのだ。

親父は長野県中野市。志賀高原や猿サルが温泉温泉に入っている渋温泉温泉なんかの近くの出身

冬はリンゴりんご、夏は桃ももやブドウぶどうなどを作る農家の出だ。

いわゆる田舎の子丸出し。

そんな2人が東京のとある会社で出会い、何故だか惹かれあい結婚し、私と妹を育て暮らしていた。

当然のことながらお袋の実家のほうが便もよく、近いので月1のペースで行っていた。

そして、祖父母も元気で、隣には曾ばあちゃんも住んでいた。

祖父母は和菓子屋を営んでいて、訪ねると必ず団子お団子や、夏はかき氷カキ氷が食べ放題だった。

 

一方、親父の実家は遠い。今でこそ新新幹線後ろ新幹線真ん中新幹線前も通って時間も短くなったが、昔は電車なら特急あさまで長野まで行き、そこから長野電鉄電車に乗って信州中野まで行く半日は余裕でかかる旅だった。

当時の長野電鉄のイメージはとにかく、恐ろしく古いというイメージ。

シートはツギハギだらけ。所々にコイルのバネバネがとびでている。

今はそんなことないだろうが、40数年前はそんな感じだった。

車だと碓氷峠を通って途中おぎのやで峠の釜めし釜を行きも帰りも食べていく。そんなんだから家には釜めし釜めしの茶碗が何人家族か?というくらいにあった。

今から考えると、捨てればいいのにという感じだが田舎っ子のおやじには通用しない。

 

なので年に1回行けば良いほうで、長いと2年くらいは行かない感じで、子供達もだんだんと行きたがらなくなっていたが、子供たちよりも一番行きたくないと思っていたのが、

お袋だ。

なぜかというと

親父方の祖父母は私が物心つく前に他界しており、親父は末っ子である。

実家といっても長男が跡をついでいるため、末っ子にはちょっと肩身が狭い。

前にも書いたが、行くとなったらかなりの長旅だ。

疲労困憊で着くと、親父と子供たちは居間へ。

お袋は、こない。

どこにいるのかと探すともう台所で夕飯の準備に駆り出されている。

そう、我々はお客様ではないのだ。

末っ子の家族とは

年功序列

封建制度

まだ戦争は終わっていない。

欲しがりません勝つまでは。

音譜月月火水木金金音譜

真田丸でいったら、2代目関白の豊臣秀次?

色いろなことが思い出される始末。

 

そんなんだから、長野に行くとなるとお袋はあまりいい顔をしなかったはず。

あと、お袋から聞いたのが

新婚当初長野に行ったら、ご飯の時に

キュウリキュウリキュウリの味噌汁味噌汁が出て、

ありえないと思ったそうだ。

親父はウリウリの味噌汁味噌汁だというが

お袋の実家は白味噌で、親父の実家は田舎味噌と味噌自体も食べなれていないお袋にとっては針の筵であったことだろう。

私が10歳までは横浜にすみ。

そこから埼玉、茨城と転居した際には、

「私はここで死ねない」と堂々と宣言し、50を過ぎてようやく埼玉まで戻った。

そこでお袋としては満足したのだろうか

きっと今頃は信濃町のあたりや神宮のイチョウ並木あたりを颯爽と歩いているに違いない。

 

Mahalo nui!