ヘタな理屈の落とし穴
子どもの頃,しばしば親に「屁理屈を言うな」と叱られた。子どもの頃から理屈は好きで,今も研究者の端くれだからもちろん好きで,学生の頃も理屈を大切にしている『数学』が一番好きであった。 親に叱られた折も,「ごめんなさい」と言いながらも自分の方が筋が通っているのではないかと思っていたことも多い(我々の世代は,目上の人に注意されたらとりあえずは謝るのが通常である)。 専門の教育学の観点からすれば,諸説あるが,子どもに抽象的思考が芽生え,論理で考えられるようになってくるのは,小学校中学年くらいからとされている。 したがって,(今の私のような?)確かな理屈を構築できる大人からすれば,小学1・2年生くらいの子が言い返してきても,それは屁理屈ということになるのだろう。 『屁理屈』とは,道理に合わない理屈,つまりヘタな理屈のことを言う。 ところで,長年,数学及び数学教育に関わってきて,今も若者に教える立場であるが,日本人は理屈や論理に弱い人が多い。文系国家とでも言うべきか,中には数学や物理学ができないことを自慢げに語る者も少なくない(どうかしていると思うが)。アルファベットはある意味論理的であるから,それを扱う人々の方が理屈には強い。YesとNoではっきりさせるというのも,そういうことだろう。 日本の若者は,世界一と言えるほどスマホばかり弄っているので,ますますしっかりとした自分自身の理屈は構築できないのではないか,・・・。 で,私のような自分で考えることを要求する立場の者は,嫌われる。でも,数学が苦手で嫌いな人であっても,しばしば口にするのは,解けると「嬉しい」「気持ちが良い」ということだ。 私の考えでは,これは多分,理屈が明快で,自分で正解であることがしっくりくるからであろう。つまり『屁理屈』でない『真理屈』は感覚として心地よいのである。『理屈』は理系だが『心地よい』は文系のような気がするなあ。 昨今,極めて若年層にも及ぶ異様な犯罪,また,いじめやハラスメントに代表される人権問題などなど,メディアでは知識人と呼ばれる専門家たちがこぞってもっともらしい論理(理屈)をもちだして,分析にかかろうとする。そして,そのことを理解することを求めてくる。 でも,何か心地よくないと思いませんか? どういうことかと言うと,しばしば現代の社会的背景や本人の成育歴などを持ち出し,なるほどとも思えたりもするが,いつの間にか何か加害者やいじめをした張本人が必ずしも絶対的に悪くはないという立ち位置に誘導されているという感じが,何とも心地よくない。 その文系的「心地よくない」は結構大切であって,きっと理系的に真の理屈ではないからだと思う。どっかが『屁理屈』になっているのだ。私には,そう思えて仕方ない。