「荒らし」の理由 | 名無しの唄

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鼻歌と裏声の中間ぐらいの本気

ネットにネガティブコメントを書く人は単純に「ドSなだけ」だと判明 / 荒らしの割合はネットユーザー全体の5.6%
荒らしと炎上はネットの華などと申しますが、マニトバ大学が出した「荒らしは単に楽しみたいだけ」とい..........≪続きを読む≫ 会話とは、その文字に表れている通りに、相互性のある営みだ。
一人の人間だけでは成立しえず、また、一人が会話をしているならば必ずそこには関わっている別のそれ以上の人間がいる。
そしてその相互性の具体的な雰囲気や指向性にしたがって、各人は会話における発言や位置をその都度構成しているのである。
言い換えれば、人間は何か発言をする時には、同時に相手や周囲からの要請を吸収しているということだ。

一方、インターネットにおいて書き込みをする場合、その様子は若干変わってくる。
インターネットの上に表れる文字表現は、全てがそこに辿りついた人間のめに触れる可能性があるものであり、むしろ広範に相互性が生まれうるものであると言える。
しかしながらそれと同時に、インターネット上に言葉を落としていく正にその時、その人の前にはパソコンかそれに類する機器があるのみだ。
すなわち、インターネットでの発言は、本来大きな相互性を発生させるものであるが、一方同時に、利用者にはあたかも相互性が存在しないかのような意識を起こさせやすいのである。

「荒らし」と称される発言の中には、確かに単純な暴言も多いが、しかし一方で、場所やタイミングのズレによって生じる、悪意はないであろうものも多くあるように思う。
かような「荒らし」はなぜ起こり、またなぜ「荒らし」と認定されるのか、それはひとえに、上記のような相互性の現実と想定の差異によるものではないだろうか。
つまり、生身の会話であれば、その場でその都度雰囲気や指向性の共有が行われ、言葉の発信や受容はそれを前提に行われるため、一見無秩序であるかのような発言も有意義に扱われる時もある。
一方インターネットでは、そのような前提の構築が成しえず、当然に起こる発信と受容の時間的差でさえも想定されず、各人の都合で言葉が扱われるため、実は練りこまれた言葉であっても、無価値な混沌と断じられてしまうのである。

インターネットと関連して、コミュニケーションについて考えるとき、言葉と交わす以前の、あるいは言葉を交わすと同時に構築される、相互性の前提について押さえておく必要があるように思う。