【西の勇気の原点(上)】恩師・加藤監督が証言、致命的1点防ぐ西の投球術 | 浜のおじさん&週末はオリックス親父( ̄∀ ̄)のブログ
 国内フリーエージェント(FA)権を行使して阪神に移籍した西勇輝投手(28)のルーツを訪ねる連載『西の勇気の原点』がスタート(全3回)。第1回は小、中学生時代に指導した菰野(こもの)ボーイズの加藤忠昭監督(70)に聞いた。持ち味である総合力の高さは、少年時代から自身の特長を把握し、創意工夫した結果だった。 (取材・構成=新里公章) 多少ダメージを受けても、最後に勝っていればいい。そんな哲学を貫いて、現在のスタイルの原点を作り上げた。西を小2から軟式の「竹永野球少年団」で、中学時代には硬式の「菰野ボーイズ」で指導した加藤監督が振り返った。
 「打線が6点取ったら、5点取られるんですよ。『あと1点とられなかったら、勝つでしょ』って。そんな割り切りが、彼のテクニックを上達させたんでしょうね」
 当時から投球フォームは今とほとんど変わらず、完成度の高さは光っていた。制球力も抜群だった。しかし、小学校時代の持ち球は直球のみで球速も平均的。力勝負では抑えきれず、走者を背負う機会は多かった。
 そこで西少年は「得点さえ許さなければ…」というスタイルを磨くことにし、フィールディングやけん制の技術練習に取り組む。「二遊間の子ともよく『こういうタイミングで(二塁に)入れ』って、けん制の練習をしていました。ガンガンいって、打たれたらしようがないというのが普通の子なんですけどね」。自らを客観視できるクレバーな面も、当時から際立っていた。
 走れば野球部以外の子供よりも遅く、兼務していた捕手をやらせれば送球が二塁まで届かない-と、決して抜きんでた才能に恵まれていたわけではなかった。だが「抑えれば勝ち」という哲学を曲げず、投手としての総合力を磨いた。中学に入ると体格が大きくなり、中1で110キロ中盤だった球速は卒業間近に130キロに向上。レベルはグンと上がった。
 抜群の制球力と多彩な変化球を駆使する投球術に加え、フィールディングのうまさやけん制技術の高さでも得点を許さない。そんな現在のスタイルは少年時代から培われていた。「リーグが変わって心配は心配だけど、どういうふうに対応できるか、投球術が変化するのかも楽しみに見ています」。加藤監督は、新天地でのさらなる進化を期待していた。
★小学校時代「やんちゃ」
 加藤監督はマウンドを離れた西の素顔を明かした。小学校時代は「やんちゃでしたねえ。(親に)『練習に行ってくる』といって魚とりに行ったり、砂場で浅い落とし穴を作ったり。かわいいやんちゃをしていました」。だが、中学時代になると「やんちゃは消えて、練習への姿勢もよくなった」と懐かしんだ。
加藤 忠昭(かとう・ただあき) 1948(昭和23)年8月16日生まれ、70歳。三重県菰野町出身。三重・海星高野球部2年時に甲子園出場。会社員として勤務しながら、約30年前に竹永野球少年団を設立し監督に就任、全国大会で3度優勝。菰野ボーイズを2003年に設立し、現在は後者の監督を務める。

野球部2年時に甲子園出場。会社員として勤務しながら、約30年前に竹永野球少年団を設立し監督に就任、全国大会で3度優勝。菰野ボーイズを2003年に設立し、現在は後者の監督を務める。